正月文化

“一年の計は元旦にあり”と言うように、一年の節目として、日本人は正月をことのほか大切にしてきた。日本文化、国民文化とも言える行事でもある。元旦の朝、父は、幼かかった私に四方拝を教えた。父と一緒に、東西南北を順番に拝んで、昨年への感謝と今年の無事を祈った。

そして、正月は子供にとって最も嬉しく楽しい時だった。畳の部屋に祖母、父、母、叔母、弟の全員が集まってお節料理を食べた。その後、お年玉をもらう。かるたや福笑いで遊ぶ。福笑いと言っても、今の子には何のことか分からないだろうが。 そして、親や親戚等がやって来て、子供たちはお年玉をもらう。我が家には、親戚は来なかったが、親と、商売をしていたことから、お客さんにもらった記憶が少しある。“もういくつねるとお正月”と歌詞にあるように、本当に指折り数えて待ったものだ。しかも、近くには、初詣で賑わう住吉大社がある。もらったお年玉を持って、いろんなものを買うわけでもないが、近所の友達と境内の出店に行った。

かつて、正月は家事を休み、商売人も店を閉めることが多かった。正月三ヶ日は、どこの商店、市場も閉まっていた。何かを買おうとしても、売っている店などなく、道路は閑散としていた。だから家庭では、年の暮れには買い出し、大掃除と、大忙しで、町は活気にあふれていた。それぞれの家庭では、正月休みの間、日持ちのするような料理を作って置いたもの。これが、お節料理。一年の始まりを祝う正月に欠かせないお節料理は、保存食として作っておくという意味合いもあった。

25年程前になるか、マクドナルドが近所にできた時、お節料理に飽きた人たちが、店頭に並んでいたのを覚えている。今では、普段と変わらず百貨店、大手のスーパーや近隣の商店が開いているのは、便利なようで、なにか正月らしくなく、私には寂しく感じられる。

羽根つき、たこ揚げもしなくなり、室内でのかるたや福笑いも電子ゲームに変化するなど、昔から行われていた日本の正月文化が減ってきた。私は、正月の雑煮が好きである。大阪の雑煮は、白味噌仕立て、すまし仕立てである。そして、その中に入れる具は、他府県に比べると具材の種類も豊富だという。江戸時代に天下の台所であった名残りなのだろうか。我が国で多くの伝統的な習慣が忘れられていくなか、正月には家族や親戚が集まったり、初詣や雑煮・お節料理を食べる習慣、近所の人々との年始の挨拶といった正月行事、そして初仕事での職場の挨拶は、今も行われている。そして、住吉大社では、1月15日には古札焼納式(とんど)が行われる。朝から近所の人たちはもちろん、かなり遠い所からも、昨年一年間に守護をいただいたお札やお守り、正月のしめ縄などを持ち寄り、焼き納める行事である。お札などを焼く煙を浴びると無病息災になると伝えられている。

こういった行事は、美しい日本の伝統、文化であり、いつまでも引き継がれ続いて欲しいものである。多くの伝統的文化に直接触れる機会を多くし、その良さを肌で感じることは大切なことであろう。

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クリスマスイルミネーション

夜の冷え込みが急に厳しくなり、寒さがこたえる12月、我が家の近所の何軒かは、クリスマスイルミネーションを飾りつける。簡単なものから、かなり手の込んだものまで。普通の門灯が灯っている家の前が、12月の一時期だけは、きれいな輝きを見せる。前を通る人は、眺めながら歩いている。

いつもは小さな門灯だけがついている住宅の一角が、さまざまな色できらきら光るのは、夢があっていいものである。聖なる夜に輝く光は、我々を一瞬童心にかえらせ、忘れかけていた何かを思い出させる。街をきらびやかに彩るイルミネーション。このイルミネーション、いつ頃から始まったものか。そんなに昔のことではないと思う。

かつてクリスマスというと、キャバレーが繁盛したり、飲む人は何かと飲む理由をつけ、そのきっかけにしていたものである。ミナミの街は、酔った人で賑わっていた。それが、今や様変わり。ジングルベルとともに、ケーキを買って家族とともに食べる人が増えた。街やデパチカには、ケーキを買い求める人が並び、ケーキの箱を持った人が歩いている。

大阪では川に囲まれた中之島公園を中心に、光と水のハーモニー演じる「OSAKA光のルネサンス2010」と「御堂筋イルミネーション」が大阪市北区の中之島周辺と御堂筋で開幕した。中之島は、堂島川と土佐堀川に挟まれた東西に細長い中州。江戸時代以降、ナニワの繁栄を大きく担い、その発展の中心となってきた地である。そこには、水都大阪を代表する近代建築が並び、川にはライオン像で有名な重厚にして華麗な難波橋(なにわばし)などの歴史的な橋が架かっている。住友家の寄付により明治37年に建てられた「大阪府立(中之島)図書館」。北浜の相場師岩本栄之助氏の寄付百万円(当時)により大正7年に完成した緑青のドームと赤いレンガの「大阪市中央公会堂」。どちらも重要文化財。

普段のこの辺りは、これまでもしばしば訪れたことがある。しかし12月には、大阪市役所、歴史的建造物である中央公会堂をはじめとして、この辺一帯が建物のライトアップと燦然と輝く光のオブジェの中に浮かび上がる。昨年、初めて行ってみた。そして御堂筋へと。着飾った銀杏並木は何十万個のLEDの光で、メルヘンの世界に迷い込んだように美しく、かつ幻想的な光のアーケードロードを作っていた。人々に幸せな気分と夢を与える。このときばかりは、散らかされたゴミも隠れる。しかし、それを演出する側の労は大変なものであろう。かなり早くから準備し、色や種類を増やしたり、デザインを考えたりと、そのレイアウトに心血を注ぐのではないだろうか。それだけに、夢とロマンに浸りたいものである。

かくのごとくクリスマスの時期になると、公共の場、個人の家と、全国さまざまな所できらきらと輝く。クリスマスの時期でなくとも、イルミネーションがなくとも、きらきらと輝く町、人々に夢を与える社会であればいいのになと、ふと思う。

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イヌの介護~パート3~

7月のある日、行きつけの獣医さんが長寿のイヌの表彰を受けられますかとの話。そんな表彰があったのか。イヌで16歳以上(大型なら14歳以上)とのこと。そのペットの生年の証明を獣医が出し、当該イヌの写真を添えて提出するという。我が家の老犬ハリスは19歳。ここまで頑張っているのだから、表彰ぐらいは受けてやろうと申請。表彰日は動物フェスティバルが行われる9月20日(敬老の日)とのこと。

獣医さんへ行く際、歩くのは無理なので、手押し車(ペット用の乳母車のようなもの)に乗せての移動。向こうからダックスフンドが、飼い主に連れられて歩いて来た。よく見ると、後ろ足には車輪を付けており、前足で器用に移動している。ともに介護器具に頼る高齢犬。そのペットを連れている飼い主、そして私も高齢者で、まもなく自らも介護される身となる。

盆が明けた頃から寝たきりになった。餌を与えるときには、私の膝の間に体を挟んで、ずり落ちないように支えて、餌を私の掌に乗せて口元に持っていってやる。寝たきりに退屈するのか、精神的に不安になるのか、痴呆が進んでいるのか、前足を動かしたり、大声で唸るというか、鳴く。それは、ワンワンという声ではない。色々手を尽くしてもやまない。近所にも迷惑をかけるので、庭の犬小屋から屋内に移した。畳に大きなナイロンシートを敷き、さらにペット用のシーツ敷いて、鳴いているときは部屋の雨戸も下ろす。暑い時は、クーラーも一日中付けっぱなし。獣医さんからは、通常の薬とともに、精神安定剤、睡眠導入剤をもらっている。ときには座薬を。獣医院では、よく似た症状の高齢ペットがいる。高齢になると、こうなるそうである。寝たまま大小便をするので、その都度、体を拭いてやったり、体を裏返したりである。長寿表彰の申請はしたものの、その日まで生きているのは無理だろうと思っていたのだが、その日を迎えることができた。

表彰会場である大阪市中央公会堂は、飼い主(ペットの引率不可)、そして一般見学者で賑やか。獣医師会会長の挨拶では、“長年家族ともに愛情に包まれて長寿に達した。しかし、これからが飼い主にとって大変である。高齢になればなるほど、いろいろな問題が出てくる。最後まで愛情を持って接して欲しい”と。最長寿のイヌ、猫が表彰を受けた。壇上で表彰を受けたのは本人(?)に代わって25歳の猫、20歳のイヌの飼い主である。

今では、さらに衰えて、以前ほどには大声ではないが、時々、鳴く(唸る)。それでも、傍へ行って声をかけたり、体を撫でると鳴きやむ。先日も、夜の11時頃に鳴き出したので、そばへ行って、2~3分、顔をなでてやっていると、そのまま眠ってしまった。でも、いつもこんなことをしておれない。夜中には2回程見にいってやる。そして、大小便をしていればシーツ交換をする。食事も、噛まなくてもいいくらいの餌をスプーンで口の奥へ入れてやる。床ずれも出来ている。

学生の頃から犬を飼うことには慣れているとはいうものの、長生きすればするで、これまた大変である。ペットの面倒を最後までみるのは、飼い主の責任である。私は、まだ元気だから大丈夫だと思っているが。いずれにしても、ペットを飼うには、自らの歳と体力を計算して飼うことの大切さを実感している。我が家には、あと2匹いる。9歳と4歳である。4歳の方が、もし、これから15年生きるとすると、わが身もどうなっているやら。健康には留意しよう。

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大スターの努力

女優の池内淳子さんが亡くなった。「三婆」の脚本、演出を手がけた小幡欣治さんは「大女優でありながら、けいこ場にはいつも最初に来ていた。威張らず、わがままを一切言わない立派な女性だった。……」と。謙虚で熱心、稽古を疎かにしない姿勢。だからこそ、一流になれたのであろう。

かなり前になるが、我が国を代表する俳優で、「無名塾」を主宰している仲代達矢氏が、こんなことをある本に書いていた。それは、俳優の三船敏郎のことである。

20歳代の時、仲代は「七人の侍」に浪人役に出演。午前9時にテスト開始。時代劇の鬘をつけるのも、刀を差すのも初めて。歩きだした途端、黒澤監督に「あいつは誰だ。歩くこともろくすっぽできないのか!」「こいつには、メシも食わせずに、歩く練習をさせろ」。町の雑踏シーンのため、200人ものエキストラが待ち構えている中でテストの繰り返し。ようやくOKが出たのが、午後3時すぎ。6時間にわたる練習。その根性が見込まれ、「用心棒」に出演させてもらった。共演は世界のミフネである。1951年に『羅生門』がベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ミフネの名は世界に知れ渡っていた。氏にとって三船敏郎は憧れのスターだった。黒澤・三船コンビの映画は、「野良犬」以来、すべて見ていた氏が、実際に撮影所で三船と共演することになって、鮮烈なショックを受けたと述べている。

「三船さんは初日から台本を持ってこないのです。台詞をすべて覚えている。また、テストというといい加減にするものだが、三船さんは一回目から本気で刀を振り回すし、すぐ本番になる。たとえ、リハーサルでも、生半可な演技をやっていては黒澤さんには通じないことを身を持って知っていたのだと思う。さっそく、三船さんを見習った。ぼくが撮影所やロケ地、舞台に台本を持っていかないようになったのは、三船さんのおかげです」と記している。

台本を持って行かないということは、それまでに十分に目を通し、覚え、役柄を自分のものにしているということである。三船は大スターになっても、「遅刻はしない」「台本は現場に持ち込まない」「付き人はつけない」の三無主義を貫いた。東宝の専属俳優たちは、彼を見習って、無遅刻、台本なし、を心がけるようになったそうである。仲代は、殺陣で三船の動きのすばらしさに舌を巻いた。10人を斬るのに大体10秒だ。斬る時に息を詰めているから、ワンセット撮りおわると、三船はゼーゼーと激しく喘いでいた。大スターの真の姿を知ったと語っている。

大スターと言われる人たちが、どれだけ努力しているかということである。このことを考えると、我々の毎日は“あまい”ものである。どこかから“我々”と言わんといてくれと言う声が聞こえてきそうなので、先に訂正、“私の毎日”である。

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ゆるんで、たるんで、タガがはずれた

“親になってはならない親”というのも、変な言葉。本来は、親になってはならない人と言うべきなのか。児童虐待が、相変わらず続く。大阪市内のマンションで3歳と1歳の幼児が遺体で見つかった。逮捕された母親は「育児がいやになった」「自分の時間が欲しかった」「ホストクラブで遊びたかった」などと供述している。まったく未熟で、その無軌道な行動に驚く。食べ物も水も与えられず、真っ暗な中で母親を待ちつつ死んでいった。なんとも痛ましい。近隣の住民から虐待を疑う通報があったにもかかわらずである。訪問しても応答がなく、ドアは施錠されていてどうしようもないというが、この対応では通報しても意味がないし、これでは同様のことが果てしなく続くであろう。

連日のように児童虐待が報じられているが、どの事件がいつあったのかさえ分からなくなるほど多いのではないか。色々な事情・背景があろうとも、通常、親が自分の産んだ子を虐待するのは考えられない。それにしても、これまでは、「親は、自分を犠牲にしても子供だけは」と考えるとされていたが、今では、「子供は大事だが、自分はもっと大事」と考える親が増えてきたのではないか。今回の事件は、「子供はどうでもいい、自分の方がもっと大事」である。話にならない。親になる資格のない者が、親になったと言わざるを得ない。これだけ虐待が多いからと言って、親になる資格を与えない、免許を与えないというわけにもいかない。とするなら、まずは親になることの意味、子育てとは、親としての責任や自覚を促す教育を早い段階でしていくことであろう。このことが、人としての生き方を教育することにつながっていく。そこに果たす学校教育はもちろん、地元で子育て力アップのための母親教育に汗をかくさまざまな社会教育団体の役割には大きいものがあろう。それにしても、この母親も、こども手当をもらっていたのだろう。

一方、東京で111歳の男性とみられるミイラ化遺体が見つかったことを発端に、全国各地で、所在不明の百歳以上の人が続々と判明。所在不明の高齢者について、マスコミの問いに70歳後半の娘さんが、20~30年前に父親は、出て行ったまま分からないとの話。その人が40~50歳台の頃である。探そうとしなかったのか、そこが判然としない。さらには104歳の人とみられる白骨化した遺体が見つかった事件では、長男が「持ち運べるように骨を細かくした」と言う。異様とも思える家族関係、不思議な行動、年金の不正受給疑惑…。

さらには、行政の対応にも唖然とする。127歳の男性の所在が未確認になっていたが、44年前に死亡届が出ていたことが判明というに至っては愕然。しかも、この男性には投票案内状が、死後40年以上も送り、あて先不明で返送され続けていたという。さらに、江戸時代末期の安政の大獄の前年に誕生した人が、そのまま152歳なっているに至っては笑ってしまう。東京での一件が発端で調査が行われたわけだが、もしそういうことがなければ、そのまま放置で200歳、300歳の人が生存することになってしまう。

それにしても、若い親は、我が子に対して虐待に走り、歳のいった子(と言うべきか)は、我が親の行方が分からないと言う。さらには、親の骨を金づちで細かくして、リュックに入れる。家族とは、その絆は一体どうなっているのだろう。そして、行政も。すべてがゆるみ、たるんで、箍<タガ>がはずれているとしか言いようがない。どこかで止めなければ、崩壊が行く手に待っている。

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セミの抜け殻

我が家の近辺では、7月中旬から、セミが徐々に鳴きはじめ、下旬になると一斉の大合唱となる。それは、小中学校の終業式に合わせたように。その歌は朝の5時すぎから始まり、7時頃には、まさに大合唱となる。そして、昼過ぎには大合唱に疲れたのか、殆どのセミが昼寝に入るようである。時折、昼寝をしそこねたセミが鳴いている。いや、昼過ぎに鳴いているのは、朝寝坊をしたため大合唱に参加し損なったずぼらなセミかもしれない。まさに季節を感じる。私にとって夏休みは、幼い頃からセミの鳴き声とともにやって来るのである。

セミが夏に木に産みつけた卵は、数カ月から一年かけて、やっと孵化。その幼虫は暫くすると地面に落ち、土に潜っていく。潜る深さはセミの種類や季節によって色々らしい。潜った後は、管のような口を木の根に刺して樹液を吸いながら、アブラゼミやクマゼミなら5年ほど土中で過ごすと言われる。土の中では、どんな暮らしをしているのだろうか。長い年月、地中に居て、ようやく地表に出て光を浴びて生を謳歌するとはいうものの、世に出てわずか数日で、この世を去る。はかなくも短い寿命である。それだけに、地表に出た彼らには、夏の日差しの下、思いっきり歌わせてやりたいと思う。我々にとって、つらい暑い日差しも、長年、土の中で頑張ってきた彼らのためには少々我慢しよう。

ところで昨年の夏、どこからやって来たのか、我が家の前栽のコンクリート面に、仰向けにひっくり返って足を動かせていたセミの幼虫がいた。せっかく地上に出て、元気に飛び立とうとしているのに、これでは羽化すらできない。羽化しやすいように傍らの網戸に幼虫を置いてやった。幼虫は上手に網戸を上がっていき、夜遅くには、きれいに羽化したアブラゼミに変身していた。明け方には、どこかへ飛んで行った。彼<彼女か?>が長年の間、着ていた服を網戸に置いたままである。抜け殻だけが残った。おそらく我が家の近くの神社で鳴いている仲間の中に入ったのだろう。置いていった抜け殻は、網戸に足をからませたままずっと静止している。わざわざ取って捨ててしまうのは、なにか不憫で可哀想な気もしたので、そのままにしておいたら、雨にも負けず風にも負けず、動じることなく一年が経った。今も抜け殻は、網戸にまるで生きているかのごとく止まっている。時々、それを見るが、抜け殻の主は、とっくに世を去っているのである。なにか不思議な気がする。この主は、昨夏の間に死んでしまい、その子は、今、どこかの地中にいるのだろう。もし数年して地表に出てきてセミとなった彼(彼女)が、偶然、この網戸に止まることがあれば、我が親の抜け殻に気づき、その再会に感激し涙することだろう。

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高架下の風景

樹木の効用は言うまでもない。空気も新鮮になるし、何よりも緑は我々の体に活力を与え、心をなごませてくれる。本学のキャンパスにも樹木が茂り、四季折々に花が咲く。我が家の近くの神社には、当然樹木がいっぱいである。しかし、これも状況に寄っては、マイナスも出てくる。神社の樹木は時に高くなりすぎ、道路にまで枝が飛び出す。落ち葉の季節になると大変である。台風シーズンともなれば、樹木が揺れて恐怖も感じる。

毎朝の通勤時、いつも気になる箇所があった。高架を走る電車の窓から外の景色を見ていると、民家が建て込んでいる中の一カ所だけ木々が生い茂っている。それは繁っているというよりも鬱蒼と繁茂している。周囲の家の屋根に木の葉が蔽っている。あそこまでいくと、周りの家々も困るのではないだろうか。冬でも木々が茂り、夏になると、さらに樹木は高く、そして四方八方に枝を張り、葉を伸ばし周辺を蔽ってしまっている。当然、夏のことゆえ蚊をはじめとする虫も多いことだろう。

車窓からは、繁茂する樹木しか見えないが、その下には家があるのだろうか。樹木の中を全く窺い知ることができない。もし、人が住んでいるのなら日中も電気をつけなくては、生活できないのではないか。それともその箇所だけ誰もおらず、樹木が生い茂っているだけなのだろうか。途中で下車して、謎の森を一度、見に行きたいなと思うほどであった。

ところが、先日、突如として、その風景が消えてしまっているのに気づいた。樹木がすべて取り払われ、庭石かもしれない大きな石と伐採された樹木が転がっている空き地になっていた。住まいに使用されていたらしい建材が置かれていないところから、単に樹木が茂っていただけで、家はなかったのだろうか。それとも、私が気づいた時には、片づけられた後だったのだろうか。大木が根本から切られ、切られた部分が転がっている。長年に渡って空に伸びていた樹木が一つの材木になってしまっているのも、何かわびしい。

まだ地面も整地されていない。二百坪はあろうか。周囲の家は一挙に明るくなったことと思う。住宅が建つのであろうか。何年も散髪をしていなくて暑苦しかった頭にバリカンを入れて、丸刈りにしたようである。見ていて、“すっきり感”はする。樹木は人の心に潤いを与えるが、山の中ならいざしらず、街中では手入れもしていない伸び放題は、周辺を困らせるであろう。かといって、根元から伐られてしまい、伐られた部分が鮮やかな肌色に光っているのも、これまた悲しい。樹木には何の責任や罪もないが、人間というものは勝手なものである。

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カルガモの不思議

5月1日(土)昼過ぎ、キャンパスを歩いていると、本学教員から池にカルガモが卵を産んでいるとのこと。校舎と校舎の間にある小さな池の真ん中に、ほんの小さな島がある。見ると、そこに7~8個ほどの卵が見えている。いつ産んだのか分からないが、猫やイタチに襲われてはいけないということで、職員がネットを張ってくれていた。このため親は、巣の傍にいた。思いのほか大きな卵で、鶏のより大きいのではと思った。このカルガモ、いったいいつ、どこからやって来たのだろうか。今まで本学にはいなかった。

毎日のように見に行くが、いつも親鳥は卵を抱いたまま微動だにしない。天候不順で、連日、雨が降り、それも風まじりのかなり強く降る日もあったが、親鳥はじっとしていた。どしゃぶりの雨の中でも、じっと卵を温めている健気な姿に、思わずそばへ行って傘をさしかけてやりたかった。この本能は、正直凄いと思った。最近の児童虐待を見れば、子育て本能に限って言えば、あらゆる動物の中で人間が最も劣っているのではないだろうかと心配になってくる。いや、これは日本の親だけかも。ともかくも見習うべきであろう。

卵を抱き続けているのも、ええ加減いやになってきて、どこかへぶらっと出かけたくならないのだろうか。ずっと卵を体の下に抱えたままなので足が痺れないのか、肩がこらないか、腰痛にならないだろうかと、つい人間と置き換えて考えてしまう。いつ雛にかえるのだろうか。ついに待ちに待った日がやってきた。5月21日(金)の朝、本学教員が、卵がかえったと知らせてくれた。親鳥について、元気いっぱい泳いだり、陸地に上がって元気よく鳴きながら走り回っていた。雛として誕生した途端なのに、この素早い動きに暫し驚嘆。丁度、10羽いた。皆、大喜びで、「かわいい、かわいい」の連発。

翌22日(土)朝、池の親子を見に行くと、一羽もいない。親も。一瞬、アレッ! 昼も、午後遅くにも、見に行ったがいない。親を入れて11羽が忽然といなくなった。全くの不思議。何かの異変があったとしたら、痕跡が残っているはず。

“カルガモのお引っ越し”と、よく新聞紙上に掲載されていることがあるとはいうものの、早すぎるのでは。あまりに皆がかわいい、かわいいと言ったので、親は子を連れてどこかへ避難してしまったのだろうか。それ以来、見かけない。捜索願いを出すわけにもいかない。夜のうちか明け方に、校門の警備員に見つからないよう親鳥を先頭に、一列になって出て行ったのか。どこかからやって来て卵を産み、雛が誕生すると、子どもを連れて再びどこかへ。本学に、ちょうど22日以上は宿泊、滞在したにもかかわらず、宿賃も支払わず、密かにどこかへ行ってしまった。宿泊代の請求もできない。どこかの池で、親子仲良く暮らしているのだろう。塞翁が馬の“馬”ではないが、成長した子ガモが子どもを沢山連れて、いつか里帰りしてくれるであろう。

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イヌの介護~パート2~

我が家の老犬ハリスは、人間にたとえれば90歳ぐらいか。昨年後半からは、さらに衰えが目立ち、自分でハウス(犬小屋)になかなか入れない。体の自由がきかないようで、ハウスの前でじっとしていたり、庭で座るでもなく、立つでもなく、腰を落とした中腰のような不安定な格好でじっとしていることが多かった。ことに後ろ足が弱っている。ある時は、ハウスに上半身を入れ、下半身は外に出たまま眠っていた。耳は、ほとんど聞こえず、視力も少し衰えている。認知力も衰えているようだ。昨年の12月、寒いので玄関に入れてやった。

年末の31日、ほぼ立てなくなり、ドタンと横倒しに倒れる。これはいかん。明日は正月。獣医院も開いていない。いくら歳だからといっても、このまま放置はかわいそう。急遽、動物夜間救急センターへ車で連れて行った。病院に着いたのが、まもなく年が変わろうとする午後11時40分。待合室には、患者ならぬ患犬、患猫が10匹はいたろうか。それに付き添う保護者(飼い主)が10数人。雑種は我が愛犬のみで貴重な存在。その後も、入れ替わり立ち替わりペットが飼い主に連れられてやってくる。最も重体なのも我がペット。他の保護者(?)は我が愛犬の状態を複雑な顔で見ている。獣医師は数名いたが、それでも1時間余り待った。歩けないので、診察室へも抱いて入る。

帰宅したのは、元旦の午前2時半。家の前は初詣の人たちで賑わっている。“正月三が日、もたないな”と思った。こいつとも別れの刻がやってきたと感じた。玄関にシーツを敷き詰めたりして寝かす。しかし、しんどいのか、体が自由にならないのか、横になることが出来ず、玄関の所で、中腰のままじっとしていたり、よろめいたりしていた。うまく横になれないので、時には横にしてやった。

糞の始末の紙や水を入れたペットボトルを持って大小便のため外へつれて行くが、弱弱しく極めて遅く歩く犬に、通行人も振り返るほど。100メートルほどしか歩けず、しかも後半は抱いて帰る。体重は9kg程で小型に近いので助かるが。食事も、あまり食べようとしない。正月は、なんとか持ちこたえた。かかりつけの獣医院へ連れて行くと、心臓が弱くなっており、血液循環も悪く、このため足などに軽いしびれがあるはずとのこと。朝夕、一錠ずつ餌に薬を入れている。

奇跡の回復なのか、今では以前よりは歩ける。何かの拍子によろめいてこけると、すぐに起きあがれない。時には、こちらを見て、起こしてくれと言わんばかりの目をするので、「はい、起きやぁ」と言いつつ、起こしてやる。最近は、暖かくなってきたので、前栽に離している。先日も、見知らぬ人が、「去年から見ないから、どないしたんかと心配してましてん」と、私に話しかけてきた。「寒いので、中に入れてましたので」と。「これで安心しましたわ。元気でおりや」とイヌに話しかけてくれた。もちろん前栽といってもごく狭いもので、まさに猫の額でイヌがうろついている。食欲もある。しかし、食べようとして食器に辿り着くのが、これまた大変。体が思うように動かない。食器に前足を突っ込んだりして、しかもその足をすぐには抜くことが出来ない。餌を食器の外にこぼしたりする。落ちている餌を、私の掌に乗せて口へもっていってやると、間違って私の指をかむ。“オイオイ、それは私の指やがな。食べるもんと違うがな”。今日も、のろのろと庭を歩いたり、伏せのかっこうで、時に中腰の不安定な姿勢で、じっと何かを考えている。自らの人生ならぬ、犬生を振り返っているのであろう。

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社会人としてのスタート

いつもと同じ通勤経路なのに、今日は何となく華やぐ。それは、新調のスーツ姿の若者が目立つからであろう。4月1日、全国一斉に新年度の始まりとともに、学校には園児、児童、生徒、学生、そして新任の教職員が門をくぐり、会社や官庁には新人が入社、入庁した。社会人として、スタートを切ったのである。同じ組織なら彼らには、そんなに差がない。しかし彼らが5年、10年、20年、さらにそれ以上の年月が経てば、大変な差が出てくる。

私が学校を出て、新任教員として赴任した学校には同期の者が私を入れて5人いた。互いに授業をはじめとして生徒の指導全般について、よく話し合ったりした。そして、こうしたことを通じて切磋琢磨した。授業や生徒指導等で負けてはならない。そのため、授業の上手な先輩教師や学校の中心として活躍している何人かの大先輩である上司を注視して、その技を盗もうとした。また、色々なことを教えてもらった。「一色くん、一色くん」と、よく声をかけてもらい、さまざまな指導、時には注意も受けた。今も、その先生方の何人かはご健在である。

そして私が、中堅の教員になった頃、毎年4月、新進気鋭の教職員が10人ほど赴任してきていた。半年、一年と経過していくと、彼らの間には明らかな差が見えてくる。学校の仕事一つ一つに前向きに取り組み、少しでも多くの事柄を身につけようとする者、一方では、自分の教えている教科以外をできるだけしないでおこうとする者もいた。そして、後者の教師は、教科に集中しているはずなのに授業は下手であった。つまり、多くのことを学ぼうとする者には、様々な力がプラスされ、結果として指導力がついていくのであろう。

将来、学校の中心として活躍するであろうと思える者もいれば、その逆の教職員もいた。優れた先輩教師から学ぼうとしない、唯我独尊の者もいた。言葉遣いが、いつまでも学生のままである者。組織の何たるかを理解していない者もいた。当然、彼らは経験を積んでも、教育力そのものは身につかず、あまり成長が見られなかった。授業がまずく、生徒の心を掴むのも上手でない。同僚教員からの信用も低かった。当然、後輩に追い抜かれていった。同様に事務職員の中にも事務処理がまずく、同僚とトラブルを起こす者もいた。しかも彼らに共通するのは、自らの行動・所作が間違っているということに気づかず、変に自信過剰、ときに横柄ですらあった。そこには学ぼうとする姿勢がなかった。

4月、社会人としての歩みを始めた新進気鋭の若者。会社であれ、官公庁であれ、初めは人に揉まれて押し合いへし合い、雨風は窓から吹き込んでくる。ときに自らの不甲斐なさに涙し、悔しい思いもし、それに耐えながら、彼らは成長していく。また、そういう中でこそ成長していくのである。変に彼らをかばうような組織なら、彼らは成長しないし、その組織も伸びないであろう。もっとも、その人が伸びるかどうかは、つまるところ、本人の自覚が最大であること言うまでもない。そのためにも、あくまで謙虚に、そして一方では、範とするべき先輩、上司を選ぶこと、見抜く目も大事であろう。

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