消えゆく航路

100年にわたり、本州と四国間の輸送を担ってきた宇高航路(宇野港―高松港)が、この26日で消える。瀬戸大橋開通という大敵と戦いながら営業を続けてきたが、昨年3月に始まった休日の高速道路料金の大幅割引が導入されてから状況が激変。景気浮揚のための政策のおかげ?旅客数、自動車輸送台数とも減り続けていたところへ、皮肉にも国が打ち出した景気対策という大波にのみ込まれる形での幕引き。高速道路料金割引、さらに無料になれば、こういうことは予想された。

宇野―高松を結ぶ、この航路にはかつて何度か乗船した。船から降りた乗客は、早足で列車に乗るべく急ぐ。列車から降りた人も、船を目指していそぎ足。フェリーから出てくる車、そして乗降客で、かつては賑わっていた。車のときは、船の中で休めた。また、四国に着いた港で食事もした。廃止されれば、両方の街、商店街にも影響が出てくるだろう。フェリーを生活の足として利用している人もいよう。一つの政策が採られれば、どこかで何かが影響を受け、それが良いこともあれば、逆もある。そのことを読んだ上での政治が大事であろう。

この航路は旧国鉄が宇高連絡船を就航させたことに始まった。宇高連絡船といえば、思い出すのは「紫雲丸」の事故である。私が中学の時であった。昭和30年5月早朝、高松を出港した旧国鉄連絡船「紫雲丸」が濃霧の中を運航中に他船と衝突して沈没。一般乗客、修学旅行中の児童生徒、教師など168人が亡くなるという大事故が起こった。前年の秋には台風による暴風雨をついて函館港を出港した青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、死者・行方不明者あわせて1100余名という大惨事が起こった後であった。

話は飛ぶが、この洞爺丸事故と北海道岩内の大火をキーに水上勉が名作「飢餓海峡」を著し、内田吐夢監督で映画化。伴淳三郎、三国廉太郎、左幸子主演で重量感のある作品であった。もともと喜劇俳優であった伴淳三郎のシリアスな刑事の演技は際立っていた。私は小説にも映画にも釘付けになった。先月、亡くなった藤田まことも、俳優として素晴らしい変身を遂げた。ドリフターズで活躍していたいかりや長介もそうだった。こんなにも役者は変身し、見る者を引きつけることに驚く。それには大変な努力と精進、そして苦労、さらにそこから出てくる人間としての圧力であろう。

ところで、紫雲丸の事故では、沈まんとする船体と助けを求める乗客の写真が新聞に掲載されていたのを、今も鮮明に覚えている。子供心に、こんな写真載せていいのだろうかと思ったものである。確か報道写真の在り方を巡って、その後、大きな問題になったのではなかっただろうか。

時代の流れとはいえ寂しいが、最後の日が近づくと、懐かしむ人たちで乗客が増加するであろう。これもまた、寂しい。しかし、フェリーは大量輸送の可能な運輸手段ゆえ、いつか必要性が再認識されるときが来るのではないだろうか。

 

なお、航路存続について6日、関係機関が協議し、存続形態や必要条件を調べる実験運航に取り組むとのこと。四国運輸局は国が最大半額補助等を提案し、地元自治体側は国の全額負担を求めている。

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こども応援ひろば2009パートⅡ

1月16日、女優の三林京子さんを迎え、「私の子どもだったころ」をテーマに話して頂いた。昼の2時からの講演だったが、12時40分頃には本学に来られた。控室で、吉岡副学長とともに三林さんと1時間近く話をさせてもらった。住吉公園の近くにお住まいで、私の家から数分の所。そんなことから住吉大社の太鼓橋、近くの浅沢神社、ここは芸能の神様とのこと。さらにはその傍にある喫茶店のことなど、極めてローカルな事柄も交えて話が弾んだ。もちろん話の中心は芸に関すること、そして大阪府の教育委員をされていたことから教育に関すること等々だが、そのパワーに圧倒されてしまった。今の若い人たちには厳しさが足りない。家庭での躾、学校での教育にも厳しさが必要ではないかと言っておられた。

さて、会場には一般の方、学生たち。今どきの学生のこと、私語するような失礼がないかと心配したが、全くの杞憂に過ぎなかった。三林さんが登壇、話し始めるや、その迫力、パワーに圧倒され、場内は「シーン!」。頬杖でもついていようものなら、怒鳴られそうな緊迫感すらあった。

講演は、正しい姿勢、正しい座り方が大事ということから始まり、子どもの頃、“戦争ごっこ”“お姫様ごっこ”“ままごと”といった“ごっこ遊び”をする中で、創造力が培われていったなど、物のない時代に生まれ育った頃の経験を話しながら、今日の子ども・学生にとって大切なことは何なのかを熱心に語られた。父からは、「寄り道をせい」「怒ってくれる人を大事にせよ」と言われた。「自分の部屋をきちんとできないようなら、仕事場に行っても何も出来ない」「ペットボトルでお茶を飲むことはやめ、自分でお茶を入れる。これは、日本の文化である」「挨拶ができること。それは、家庭の中でも」。また、興味あることに挑戦し、そこから色々なことを学んでいくことの大切さを述べられた。

「若い頃には、先輩からの色々ないじめもあった。しかし、自分のことを考えてくれていると思って、気にせず黙々と修業に励んだ。そしてよくみると、いつの間にか、いじめた側は、みんな芸能界から消えてしまっている。今は、いない。」という言葉は、印象的であった。講演が終わると、学生や一般の方から、自らの生き方、あるいは自分の子の将来などについての質問があった。

それにしても、会場に三林さんの声がとどろくともいえる大きな声。話す側の迫力、熱意、貫禄がものをいう。それはどこから出てくるのか。それは厳しい芸の道、諸々の勉強、さまざまな体験・経験から滲み出てくるものであろう。一朝一夕に身につくものではない。話す力、聞かせる力を感じた。このことは、すべての教師にも言えることであろう。

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