1人の42年、23人の42年

リビアの最高指導者カダフィ大佐が死亡した。「ネズミどもを引っ捕らえろ」。大佐は反体制派のデモが始まったとき、国営テレビを通じてこう叫んだが、それから8か月。最後はもみくちゃにされ、大声でわめかれ、血だらけになって殺害された。1月に北アフリカのチュニジアで起こった政変が、瞬く間に中東諸国に広まり、2月にはエジプト大統領を追い出すなど、ドミノ倒しのように民主化運動の火が燃えた。この「アラブの春」はリビアにも波及し、独裁政権はついに崩壊した。

最初にテレビの報道で見た顔から血を流し、群衆にもみくちゃにされている男性が、かつての最高指導者とは、すぐには信じられなかった。これまでテレビで見る大佐は、帽子をかぶり胸を張った勇ましい姿ばかりであったから。排水管に隠れていたところを引きずり出されたようだが、どこかイラクのサダム・フセインと似通っている。

27歳でクーデターに成功し、その後42年間、憲法も議会もない国に君臨し続け、弾圧された死者は1万人とも、3万人とも言われる。ということは、余りに多くてはっきりしないということだろう。それにしてもリビアの最高指導者で最大実力者であるカダフィは大佐だが、大将や中将、少将はいないのか、どうなっているのだろう?

42年前の1969年、大佐がクーデターで国王を追い出したその頃、我が国では学生運動が激しく、東大安田講堂で多くの逮捕者が出た。私自身、まだ20歳代で、教員になって数年しか経っていなかった。当時の首相は佐藤栄作氏で7年半在任し、戦後の内閣総理大臣の中で最も長期政権を維持した。以来我が国では首相が23人代わった。我々日本人は、総理大臣23人の名前をどれだけ言えるだろうか。

一方、大佐は42年間も国の権力を独り占めし、リビアという国を思い通りに動かした。実に長い独裁政治。1人が長きに渡って権力を握り続ける独裁は、金と暴力にまみれ必ず腐敗し国民は困窮するもの。そんなことを考えれば、1人が42年も政権を握っているより、まだ23人の42年の方がましか。もっとも1年やそこらで首相が交代するのは論外だろう。1人で42年は悲劇であり、1年やそこらも悲劇、いや喜劇。

勝利した反体制派は歓喜しているが、「カダフィ後」の新しい統治の姿はまだ見えてこない。憲法も議会もなかった国を新たに整えるのは容易ではない。これからが、本当の意味での春がやって来るかどうかである。

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元気よすぎる掛け声

学校にいると、早朝に、また放課後に東大阪大学敬愛高校運動部の女生徒たちが、一斉に声をかけて走っている。かつて別の学校に勤務していた時は、グランドからは野球部、体育館からはバスケットボール、バレーボール、そして柔道場、剣道場からは裂帛の気合が聞こえていた。そこには、懸命に頑張る青春があった。まさに国の将来を担うであろう若者の元気な声はいいもので、こちらも元気になってくる。全国の学校で彼・彼女らの汗が迸り、青春が燃えている。

ところで話が変わるが先日、ある焼き肉屋へ行った。その店は、大阪にもかなりの数の店舗を構えている。安くて庶民的で手軽なので時々利用している。若者のグループや家族連れも多い。ところが今回、一歩店内へ入って驚いた。店員が客を席に案内する都度、入口近くに一列に並んだ数人の店員が、一斉に「いらっしゃいませ」などと大声を発する。まさに体育会系である。私は一瞬、後ずさりしたくなった。その店の他の店舗では、そんなことはなかったので驚いた。ひょっとすると、他店も一斉にそうなっているのかもしれないが。

店の方針として、お客に対して、また、店員の士気を高めるにもよいと思ってしていることであろうが、我々のような年配者にとっては場違いな感じで、大きな声で勢いよく大歓迎(?)の挨拶をされると恥ずかしくなって、ちょっと待ってくれ、やめてくれ、ごく自然に静かに入店させてくれと言いたくなる。もちろん元気がよく、お客に対する対応もいいという人もいるだろうが、私にはちょっとなあと感じる。そんな大声を一斉に発しなくてもいいではないか。大声を発するなら、開店前に元気をつける意味で実施してくれと。しかも、注文をとりに来る店員のすべてがマニュアル通りの決められた話し方をする。店内至る所から元気な店員の声が聞こえる。元気が良すぎて店のなか全体が、掛け声をかけて一心不乱に走っているようだ。店内が賑やか、雑踏このうえない。仲間との会話も小さな声では周囲の音に邪魔され聞こえないから、自然と仲間内の声も大きくなっていく。

たまたま私の席は、入口からかなり離れた所だからいいものの、もし、あの近くの席なら客が入って来る度に、あの一斉の大声。これでは喧しくて、落ち着いて食べているどころではない。

賑やかなこと、元気なことはよいことではあるが、これも時と場所と程度ものであって、元気の良すぎる喧騒はどうかなと思う。静か過ぎるのも困るが、騒がしすぎるのも困る。普通であってほしい。ほどほどである。

そして先日、友人と同種の店へ行った。店員が「いらっしゃいませ」と大声でもなく普通の落ち着いた声で、心をこめて言う。席に座っても落ち着いておられるし、周りの客も静かに食事をしている。互いの会話も楽だ。普通の静かさ、普通の騒がしさの中で、ゆっくり語らいながら食事をした。

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甲子園の熱風

8月6日、甲子園で高校野球開会式が行われた。普段、開会式はテレビのニュースで見るぐらいなのに、私が勤務する村上学園の東大阪大学柏原高等学校が大阪代表として出場していると、やはり開会式そのものをテレビで観戦してしまった。不思議なものである。

今年は開会が例年より早く始まった。節電で球場のライトの使用を抑えるためである。暑い青空の下、球場に並んだ49校の選手は、正面を向いて、細かい動きはあるものの、彼らはきちんと整列していた。当然と言えば当然だが、このことが今日できない高校生が多くいるのが現状である。

私自身、甲子園など別世界のことと思っていたら、まさか我が学園で生起するとは予想もしなかった。教員になって公立で38年、現在の勤務校で9年目、都合47年目に初めての経験である。1回戦、2回戦、アルプス席の外側で、自校の試合を待った。身動きも出来ない人ごみ、猛暑、そして応援する人々の熱気の中で待つこと約1時間半。その間、球場内で今、行なわれている試合の歓声が外で待っている我々に怒涛の如く聞こえてくる。そして柏原側に応援に来ている多くの関係者、子どもから柏原OBのお年寄りまで、熱い思い、あの熱気は何とも言えない。一体感と独特の雰囲気。形容し難い、凄いの一言。

この歳になってこんなことを経験するなんて、有り難いことである。うだる暑さの下、これをもろともしない甲子園のあの熱気、凄さを体感、体験できた。

応援団を運んでくる何十台というバスの列。甲子園周辺の人の群れ、雑踏。そしてスタンドでの大声援。なかでもアルプス席は大騒ぎ。強い真夏の西日をものともせず、自校がチャンスをつくった時は皆立ち上がっての声援、メガホンの声、団扇を叩く音、手拍子と拍手。ブラスバンドの響きにチアガール。苦境に陥ったときの一瞬息の止まった静寂と声援。そのあとの歓声と溜息。球場全体が生きている、唸っている。その中を、一羽の鳩が時々、スタンドに舞い降りてくる不思議な光景。

1回戦の初出場という重圧ののしかかる中での安定した勝利、2回戦は負けたとはいうものの大健闘。延長10回で力尽きたが、素晴らしい試合だった。翌日の新聞には、“「残念、でもようやったよ」。あちこちから飛び交う選手をねぎらう声が、試合を象徴していた。”と書いていたが、まさにその通りであった。

全国の高等学校から勝ち抜いてきた代表校が集う全国大会は、憧れの甲子園出場の夢をかなえた高校生、選手同士の勝負であり、勝った側に華があると同時に、負けた側にも華がある。そして今、甲子園初出場を果たし、素晴らしい試合をした柏原高校野球部は、その歴史に輝かしい1ページを記した。来年は2ページ目を記すであろう。2回目の夢を見せてもらおう。

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舞洲に舞う

高校野球の大阪大会、これまで幾つかの高校に勤務していたので何度も応援に行った。3回戦か4回戦まで進んだことがあったかも。殆どは1、2回戦まで。ひどい時は1回表、相手チームの先頭打者に投げた第一球をホームランされ、後はメッタ打ちにあい散々な結果も経験した。経験したといっても、実際に経験したのは選手である高校生で、私はただスタンドで応援していただけだが。しかし負けた我が校の彼らには、日頃のたゆまぬ練習、そして試合で全力を出し尽くしたという、なんとも言えぬ爽やかさがあった。その時は、相手チームの一糸乱れぬ応援にも驚嘆した。過去、違う高校で何度も応援に行ったが、今回のように決勝戦は、もちろんはじめて。

東大阪大学柏原高等学校が、舞洲球場で、大阪桐蔭高等学校を破って優勝。初めての甲子園出場を決めた。真夏のじりじりと肌を焼くような太陽の下、日頃、鍛えた技と力がぶつかりあう。互いに懸命に練習を重ね、今日を迎えた。はつらつとした青春は、一瞬のゲームで決まる。まさにそんな試合だった。9回裏一死満塁、デッドボールでサヨナラ押し出しの1点。こんなこともあるのかと思う劇的勝利であった。柏原高校が見事な粘りで5点差をひっくり返した。勝ったチームの選手全員が互いに抱きあい、飛び上がり、歓声を上げ、喜びの涙で顔が崩れていた。一方は、しゃがみ込み、四つん這いになり、悲しみ、悔しさの涙にむせぶ。そこには、両者ともに燃焼し尽くした青春がある。そして、互いに次の燃焼へと向かって行く。ことに痛恨の一球を投げた彼にとって、この経験は、その後の人生において必ずや大きなプラスをもたらすことだろう。

野球は球場という青空の下、衆人が見守るなかでの公正にして公平なスポーツ。勝ちと負けしかない世界での勝者と敗者の違い、その境界線は、一体どこでどのように誰が引くのか。

前日の準決勝で勝利し、主将で高校通算50本以上の本塁打を打っている柏原の石川慎選手は「決勝は甲子園に行きたいという思いの強い方が最後に勝つと思う」と語っていたが、この思いは大阪桐蔭だって同じはず。しかし、勝利の女神は、彼の思いに応えた。村上学園の東大阪大学柏原高等学校が、初めて勝ち取った甲子園出場。大阪で勝ち進むのは、ある意味、甲子園で勝つことよりも難しいと言われる。深紅の優勝旗を目指して、あらん限りの力を発揮してもらいたい。

かつて王選手は、“調子のいい時は、ピッチャーの投げたボールが止まって見えた”と確か語っていた記憶がある。今夏、全国の高校野球の選手の中から、将来、ボールが止まって見える者が出るかもしれない。

一回戦で敗退したチームを含め、野球に打ち込む一途な青春を讃えるとともに、一方では、彼らに野球ができる喜びをも噛みしめてもらいたい。そして、見る我々も、野球から何がしかの夢をもらった。

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紫陽花

紫陽花が咲くのは6月から7月。色とりどりに咲き、梅雨を美しく彩る。季節を表す花は、いくつかある。梅、桜、菊などは、その典型であろう。しかし、紫陽花もその一つと言えよう。「紫陽花」は、あくまで紫陽花と書くからいいのであって、これを「あじさい」「アジサイ」では、やはり風情がないように思う。あじさいの花、アジサイの花と言ってもおかしくないが、紫陽花の花と言うと、くどい。そこに、漢字の妙がある。

桜には花見があって、人々は花を前にして、多人数で飲食をしたり歌を唄ったり、踊ったりと賑やかなもの。しかし、紫陽花にはそれがないというより、似合わない。静かに眺め、しとしとと雨が降っていると美しさは、さらに冴える。雨に濡れる紫陽花は、それだけで見る人を引きつけるのである。雨がよく似合う。ある意味、桜は騒がしさの中にあっても似合うが、紫陽花にはそれがない。あくまで、静かさが似合う庶民の花であり、時に気品を感じる。

しかも紫陽花は、それぞれ微妙に色が異なる。雨が降ると、その色は一層、目にしみる。それは、空から落ちて来る雨滴に、紫や青、時にピンクの、しかもそれぞれに微妙な濃淡がある色の違った絵具を入れてあるように。紫の絵具が入った雨滴が、白い花弁に落ちた所は、そのような色に滲んでいる。道を歩いていると、民家の前に咲いているのをよく見かける。小学生の頃、近所の家に遊びに行くと、裏庭に池があり、そこには大きな蛙がいて、池の周囲に、これも大きな紫陽花が咲いていたのを思い出す。

全ての花々は、自身、美しく、かつ少しでも長く咲き続けていたいと思っているはずである。紫陽花は、比較的長く、その美しさを我々に見せてくれているのではないだろうか。本学にある女子寮にも、紫、薄紫、ピンクが咲いている。美しさとともに、静かな風景画を見るようである。地元住民が苗を植えたのをきっかけに、人々の努力で咲く大輪の花は道を美しく飾り、所によっては“あじさい祭り”なるものが催され、地域の活性化にも貢献している。

もっとも花に見える紫や青の部分が、実際は萼<ガク>であり、本来の花は真花<マカ>といって、普段は萼に隠れているので目にする機会はそうないものだそうである。

土の酸度がひとつの要因となって花の色が変化し、アルカリ性で赤っぽく、酸性で青っぽくなるとのことで、まるでリトマス試験紙のようだ。植えられている土の性質によっても色が変わるらしい。でも、これでは夢がない。それよりも、空からさまざまな色のついた雨滴が落ちてきて、それが花の上にポタッと落ちてそれぞれ色が付く。その方が夢がある。

しかも、咲いたばかりのときから花の終わりまで、日の経過とともに微妙に色を変えながら咲き誇る。花の七変化であり、これが何とも言えぬ魅力でもあろう。

先日、知人から紫陽花を描いた絵を頂いた。まるで画用紙から浮き出るように紫陽花が静かにきれいに咲いている。そこには紫、濃紺、青、淡いピンク色と、空から雨滴が画用紙に落ちたように紫陽花が滲んでいる。その絵は精根こめて、画用紙に息を止めて描いたのであろうか、精彩かつ精細に描かれている。その静かな絵を見ると、花の美しさに、ふと落ち着くのである。

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早すぎる死

4月の日曜の朝、卒業生のMから電話があった。一瞬、悪い予感がした。取り立てて用事がないのに、しかも日曜の朝に電話をかけてくるはずがない。しかも、MとSは同級生である。電話は、Sが亡くなったということであった。私はs40年4月に大阪府立高等学校の教員となった。3年の日本史を担当し、教員として初めて入った3年の教室に、Sはいた。背が高く痩せていて、目だけがギョロッとした印象の生徒であった。他の生徒よりかなり大人びており、スポーツは万能で、リーダーシップもあった。そのクラスにはかなりのやんちゃがいて、先生方を困らせていたが、私はなんとなく相性が合ったのか、楽しく一年間教えた。放課後によく彼を中心とするメンバーとだべっていた。卒業後は、学校に泊りこんでの部活動の合宿の時には彼がよく後輩の指導に来ていた。そして我が家に、彼を中心とする卒業生がしばしばやって来ては、時に泊っていった。それは、私が結婚後も、かなりの期間続いた。そして、正月には、ほぼ全員が集まっていた。その後は、それぞれが仕事の都合で、集まることは少なくなったとはいうものの、彼の後輩を含めて卒業年度を越えて20人近くのメンバーで、彼はリーダーシップもあり、その中心であった。勤務の都合とかで、集まるのは、だいたい10人余りで食事をしたり、金剛山へ登ったり、吉野の桜を見に行ったりもした。もっと以前は、このグループとは旅行もした。彼は、スポーツが好きで、ことにスキーでは、職場の仲間と海外にまで行っていた。彼のしゃべり方、あの笑い声を、今も思い出す。

昨年、病気で入院していたことを記した暑中見舞いが届いたので、まさに熱波の8月中旬、まだ新築まもない彼の家に見舞いに訪れたのが、彼と会った最期である。帰りには、最寄の駅まで車まで送ってくれた。その時は、まだ元気にしていた。今年の年賀状も、通常通りきた。年賀状には、「徐々にですが、体力を戻りつつあります。ご安心下さい」と書かれていた。しかし、私は病名から心配していた。3月になって、その後、元気にしているのか、心配になったので、近いうちに連絡をしようと思っていた矢先の電話。一瞬、しまったと思った。一度、会っておきたかった。電話をしていればよかったと悔いた。思ったときには、するもんだと反省することしきりである。

すべての卒業生の中でいつまでも親しくしていたのは、彼と、その周囲の卒業生であった。皆、それぞれ歳がいき、おじさん、おばさんになっている。通夜には、そのメンバーはもちろん、同級生が何人か駆けつけていた。かつての職場の仲間だろうか、かなりの人がやってきていた。あまりに多くの人々が来ているのに驚いた。彼の人望であろう。葬儀は勤務の都合で行けなかった。

5月の連休明けに、Mと一緒にお参りにいった。奥さんは、「死ぬということは大変、あのようにならないと死ねないんだと思いました。」の言葉は重かった。彼の病状が思われるだけに。去年の夏に見舞いに行っておいてよかったと思うと同時に、昨年末か今年の初めに会っておけばとの悔いが今も残る。しかし一方、彼の気性、男気、そしてダンディな彼のことゆえ、元気のない身を見せることに躊躇したかもしれない。しかし、私にとって一人の貴重な卒業生(5歳しか違わないゆえ、教え子とは憚る)が居なくなってしまったことは、とても寂しく悲しい。

彼は、高校卒業と同時に就職し、その職場に40年余り勤務し定年退職した。体を壊してからは、奥さん、二人の息子さんの家族に見守られ幸せだったのではないかと思う。淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫氏は“人は生きて来たように死んでいく”と述べている。不平不満を言いながら生きてきた人は、不平不満を言いながら死んでいくと。多くの人から信頼され、好かれていたSは、あの真摯な生き方から恐らく家族に感謝しながら旅立ったのではないだろうか。でも、63歳は早すぎる。

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こいのぼり

“やねよりたかいこいのぼり おおきいまごいはおとうさん ちいさいひごいはおかあさん おもしろそうにおよいでる”。 子どもの時に唄った歌である。昭和20年代の貧しい時代、今のように社会そのものが裕福でなかったから、家の庭や屋根の上に泳いでいるような大きな鯉のぼりは見かけなかったが、当時の子どもの心の中には確かに“こいのぼり”が泳いでいた。どこかに夢があり、無邪気に歌った記憶がある。学校でも習い、合唱した。

本学にも、先月から鯉のぼりが泳いでいる。本学にあるこども研究センターに、朝から親に手を引かれ、或いはバギーカーに乗せられてやってくる子ども達。親は、我が子の身長に合わせた鯉のぼりを新聞紙などで作った。様々な趣向を凝らして巧みに作られた鯉のぼり。本学の学生たちのアイディアも手伝って、手作りで作られた鯉のぼりが、校舎の吹き抜けの3階ロビーに渡した細い紐に、大小さまざまな50匹程が子ども達の夢を抱いて泳いでいる。それは、子の成長を願う親の心でもある。

泳いでいる鯉は、親が子どもの背丈に合わせたものゆえ、来年は、どんな大きさになるのだろう。親も子も楽しみ、ここにも夢がある。毎日、こども研究センタ―にやって来る親子が、自分たちで作った鯉のぼりを眺めている。

我が家の近くの神社にある御田(田圃)にもボーイスカウトの子どもたちが、指導者とともに本格的な大きな鯉のぼりを掲げている。それは、御田のレンゲが咲き乱れる中に泳いでいる。堺駅近くの土居川でも、川を跨ぐように多くの鯉のぼりが風に吹かれて泳いでいる。高架を走る電車の窓からも、時々民家の屋根の上で気持ちよさそうに泳ぐ鯉のぼりが見られる。

中国の後漢書に、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうとしたが鯉のみが登り切り、竜になることができた。この“鯉のぼり”は中国の故事「登竜門」から、男児の健やかな成長を祈ることから生まれたものである。激流の中「竜門」の滝を登り切った鯉は、霊力を帯びて龍になるという。

我が国では、“鯉のぼり”は、江戸時代に始まったようで、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景『水道橋駿河台』」に描かれている。それは真鯉の吹き流しのみ。その時代、男子の出世を願ったからと言われる。一方では錦鯉は普及していなかったため真鯉のみだったとも言われる。明治になって真鯉と緋鯉が対で揚げられ、昭和に入って小さな鯉が加わったそうだ。子どもの成長を願い、我が家をお守りくださいとの願い、祈りが込められている。そこには、温かな家族、ぬくもりのある家庭が存在し、間違っても今日の児童虐待などを考える余地もない。

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危険に挑む献身的な行動

東日本大震災は、文字通り未曾有の大被害をもたらした。地震発生から1ヵ月となるが、被害の規模は、今も全体像が明らかにならない。わが国は、世界でも一、 二を争う地震国であることは広く知られていたし、阪神淡路大震災の記憶は、建物や高速道路の倒壊、火災による大きな被害等、今も生々しい。しかし、津波と原発事故はなかった。予測も予防も人知と経験を超えた甚大な損害、悲劇を伴った災害である。4月11日現在警察庁のまとめによると、震災被害状況は、死者1万3130名、行方不明者1万3718名、避難者は14万5565名にのぼっている。亡くなられた方々に哀悼の意を表しますとともに、被害に遭われた方々には心中よりのお見舞いと、一日も早い復興を祈念いたします。

寺田虎彦に「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉があるが、何年か前、東南アジアでの津波の映像を見た際、その津波の破壊力に驚愕したものだが、それがまさか我が国にも、そしてこんなに大きな被害をもたらすとは思ってもいなかった。高さ8㍍、厚さ約20㍍で港湾を守っていた三陸海岸の防波堤を破壊した。大津波が家を遅い、車を飲み込み、路上にあるものを押し流していく。「あの家に人が…」「あの車の中に人が…」と思うと痛ましいとしかいいようがない。地震発生から津波到着までは20~30分あったが、未経験の大きな津波と、陸上を進む速さになすすべがなかった。予想を超える破壊力であり、全国的に防災対策を作り直す必要があろう。大阪に住む者としては、大阪南港、関西空港は大丈夫なのだろうかと思ってしまう。

震災から1ヵ月を経た現在も、なかなか収拾のめどが立たない東京電力福島第一原子力発電所。大津波で機器への電源を断たれ、水素爆発や放射能漏れが起きた発電所では事故を抑え込むために不眠不休の作業が行われているが、復旧作業も一進一退が続いている。原発事故で真っ先に放水など危険な作業に取り組んだのは自衛隊員だった。原子炉などを冷やすために東京電力や関連企業の社員らが続ける作業。自衛隊や消防庁の福島第一原子力発電所への緊迫の放水活動。現場では東京電力の関係者、自衛隊員、警察官、消防士らによる国のため、国民のために被ばく覚悟の作業が行われている。懸命の現場は想像を絶する修羅場であろう。まさに闘う人達。任務とはいえ、その勇気と行動には敬服する以外にはない。彼らの献身的な奮闘がなければ、被害はもっと大きくなっていただろう。

ことに、自衛隊の災害派遣は救難・復旧支援と原発の放射能への対処というに二つの作戦を強いられている。派遣人員は約10万7千人と、ピーク時で約1万9千人だった阪神・淡路大震災と桁違いだ。余震が今も続く現場で苦闘する人々が最大限の力を発揮できるように支援をするのがしかるべき所の使命であろう。でも、何とも心もとなさを感じるのである。

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ボクは運がよかった

ボクの名はハリスと言います。昨年12月上旬、遂に死にました。ボクの長生きは近所でも知られていて、ボクの死んだことをどこかから聞いた人は飼い主である主人に「ハリス君、死んだの」、なかには「ハリス君、亡くなったの」と、人間のように言ってくださる人がいて大変光栄な気持ちです。

この家に飼われて18年5ヶ月。ボクは幼い頃、大阪市住之江区にある動物センターという所にいました。歳のいったのやボクと同じ年頃など色々な犬がいました。皆どことなく悲しそうに、また、猜疑心の目で周囲や仲間を見ていました。なぜボクが、ここに放り込まれていたのか思い出せません。そんなある日、中学生と思える男の子がやって来てボクを抱き上げました。ボクはどうなるのかわけがわからないまま自転車の荷台に乗せられ、一軒の家に入りました。ここが、ボクの生涯の棲みかとなったのです。

後で聞くと、その男の子が犬を飼いたいと言ったところ、その子の父親(ボクの主人になるのですが)、野犬センターでもらってくるよう指示したとのこと。しかもボクが、茶色であったことが幸運でした。前に飼っていた犬が白系の雑種なので、同じ色では前のイヌを思い出すので、違う色を男の子は探したとのこと。あの時、ボクの入れられていた所には、同じ年頃の白色の子イヌもいました。彼は、ボクが抱かれて出ていく時、羨ましそうな顔をしていたのを今も覚えています。そして、飼ってくれた家の人が皆、ペット好きで、ペットを飼うことにも慣れていたこと。なんと、僕は運が良かったと思うのです。

歳がいってからは、耳も遠くなり、歩くのもおぼつかなくなってしまいました。そして、一昨年の大晦日、突然、立てなくなり、苦しくなってもがきました。主人は、車で救急病院へ連れて行ってくれました。昨年の夏から、とうとう寝たきりになってしまいました。しかも、ボクは寂しかったのか、なぜか自分でも分からないのですが、大声を上げるようになり、困った主人はボクを室内へ入れ、シーツを敷いた畳の上に寝かせてくれました。

死ぬ2日程前から食べられなくなり、真夜中に死んでしまったのです。時計では、1時半頃です。いつもは2時半過ぎに、ボクを見に来てくれる主人が、その日にかぎって1時40分頃、2階から降りて来て、ボクがオシッコとウンチをしていたので、シーツを換え、お尻をウエットティッシュで拭いてくれました。その時は、息を引き取ってすぐだったので、ボクは温かく、体も柔らかなので主人は気づきませんでした。そのうち、すこし変に思ったのか、懐中電灯でボクの腹部を照らし、呼吸していないことに気づき、ボクの瞼を触って動かないのを見て、主人は小さな声で、「あれ、死んでる」とつぶやきました。…………。

その日の午後、今では社会人となっているボクを連れて帰ってくれた人の運転でペットセレモニーで、お骨となりました。現在、病に伏していた部屋の小さなテーブルの上に置かれた骨壷に、ボクは入っています。横には、ボクの晩年の写真が置かれています。先日も、ある方からボクはお供えを頂戴し、ボクの写真の前に置かれています。

今、気がかりなことは、2匹のボクの弟のことです。もっとも血のつながりはないんですが。彼らも、幸せな一生を送ってくれることを願っています。

最後に、運の良かったボクに愛情を注いでくれた家族の人たち、そしてボクの周囲の人たちに感謝しています。                    合掌。

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こども応援ひろば2010パートⅡ

村上学園は今年、丁度創立70周年を迎えることとなった。その記念行事の一つとして、1月15日の“こども応援ひろば”に、声学科、童謡歌手、ソプラノ歌手である安田祥子さんを迎え、「歌こそ子育ての原点」というテーマで話して頂いた。

昭和61年に妹の由紀さおりさんとスタートさせた童謡コンサートは国内、海外での公演を続け、平成18年11月8日に2,000回達成記念コンサートを開催され、今年の4月には25周年を迎えられる。

さて、会場には一般の方々も多く、遠くは北陸から来られた方もおられ、学生たちも真剣に聞いていた。

日本の歌が、子どもの育ちにいかに大きな影響を与えるかを語られた。親が子に歌ってやること、童謡を歌うことであり、母の声、祖母の声で何気なく口ずさんでやることが、子どもにとってとても大事なこと。

童謡唱歌は極めて短いものであるが、そこには心がこめられている。『シャボン玉』はわずか40秒ほどである。“シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んでこわれて消えた ……”。『ぞうさん』“ぞうさんぞうさん おはながながいのね そうよ 母さんもながいのよ ……”。素晴らしい歌である。こういった歌を毎日、母親が口ずさんで、インプットしていく。先日も、テレビで幼い姉妹が『故郷』を歌っていた。“兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 …”。姉妹は“小鮒釣りし”を“子ブタつりし”と歌っていた。意味を分かって歌っていたわけではない。呪文の様に歌っていた。このように、子どもが大人になって、初めて意味が分かるといったものはいくらでもある。

「赤いくつ」という歌。その歌詞の中に“異人さん”というのがある。異人さんという意味が子供には分からない。“いい爺さん”と思っている子もいるし、“ひい爺さん”と思っている子もいる。それでいいのである。家の中に、歌があること自体が素晴らしい。

母親は、いろいろな童謡を鼻歌でもいいから口ずさみ、子どもを寝かせる時には耳元で子の肩を叩きながらぜひ子守り唄などを歌ってやってほしい。

日本の歌には、季節を歌うものがいっぱいある。それは、人の心に届くものである。ところが、最近の音楽、歌は映像を見て楽しむものであり、歌詞が心に届いていないように思う。日本の歌は歌ったり、聞いたりしながら、その風景を想像させる。それは、皆それぞれ違っている。その時に想像すること。そして、長じてその後に思い出した時に、タイムスリップする。思い出と一緒に聞く。美しい日本語、美しいメロディー、美しい言葉で綴られる日本の唱歌や童謡には気くばり、思いやりが込められている。ぜひ大事に歌い継いでほしい。やさしい歌が、溢れる家にしてもらいたい。親が、童謡を何気なく口ずさむことによって、笑顔いっぱいの子どもたちが育つなど、親が子どもに歌を歌ってやることの大切さを述べられた。

ことに本学学生は、将来、幼児教育の専門家になろうとする者が多いからか、講演後も、質問が出たりして、彼らにとっても、いい勉強になったことと思う。こどもの未来への大きな指針となったのではないかと思う。

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