私は、5月から10月の間は下駄を履いている。靴は足が蒸れるし、サンダルは意外と汗でべとつき足が汚れ、雨が降っているとなおのこと。素足に下駄。暑くなってきた頃、裸足で木の下駄に触れる感触がとても好きである。足の裏に触れる木の感覚がひんやりと心地良く、しかも何となく足の裏から体の熱が逃げるようで快適。なんといっても、開放的である。だから5月になったら、昨年履いていた下駄を出し、一年ぶりの再会となる。新しい下駄は、そのまま外出すると鼻緒が擦れて、親指と人差し指? いや第二指が痛くなってしまう。やはり去年お世話になった下駄との再会は、なんとなく懐かしくも嬉しい気分になる。下駄の方もそうだろう。暖かくなってきたら、長い冬の眠むりから覚め、明るい所へ出してくれるのをうずうずして待っていたと思う。そして、主人の体と一緒に、色々な所を見学できる。公園や神社、ときには飼われている犬とも一緒に歩く。
私の子どもの頃は、たいがい下駄を履いていたし、小学校の頃にはリキュウといって、高下駄ほどではないが、普通の下駄より少し歯が高いのが流行ったのを覚えている。そして下駄の歯には、自転車の古タイヤの切れ端などを打ちつけたり、張ったりしていた。おそらく、歯が早く摩耗しないようにとのことだったのだろう。
靴と違って左右が共通で、大きさも大体でいい。サイズが何センチとか細かいことも言わない。現に旅館などに置いてある下駄は、その大きさが一律である。ついでに背丈も少し高くなる。
ところで中国、インドネシア、タイなどにも下駄があるが、鼻緒が内側に寄っているなど左右の別がある。左右の区別のない下駄は世界でも日本だけに見られるマイナーな存在らしい。ただし、平城宮跡からは、穴を片寄せてあけた下駄とともに、中央にあけた片寄りのない下駄も出土している。前者は、下駄に左右があることを示している。そして、鎌倉時代以降になると、なぜか下駄の前穴の片寄りはなくなるのである。下駄の普及に伴って生産効率を上げるため、これまでのように片寄せて穴を開けるという面倒な作業が敬遠され、作り易さが、穴を中央に定着させたのかも知れない。
暫く履いていたら、歩き方の癖で歯の前後左右のどこかが減ってくる。だから私は、時々、朝に左右を逆にして履くことにしている。こんな便利で、清潔なものはない。しかし今では、下駄を履いている人は滅多にみかけない。そのため、下駄の値段は、少し高い。まさに需要と供給のバランスである。もっと安ければ、二つ、三つ買って、日によって違うのを履くのだが。日本本来の履き物とも言うべき下駄を尊重し、愛用してほしいものだ。
雪道を下駄で歩く光景を歌った江戸時代の俳句に、「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」というのがある。一方、「四谷怪談」、「皿屋敷」と並び、日本三大怪談と称せられる怪談『牡丹灯籠』では、美しいお露<つゆ>の幽霊はカランコロンと駒下駄の音を響かせて夜道を歩いて来る。これが、靴ではサマにならない。あれっ、幽霊って足があったか。でも、この『牡丹灯籠』、もともとは中国から伝えられたものだからだろうか。