しゃべりのススメ

 首からケータイをぶら下げて通勤電車に乗っている人がいる。一昔前の人が見たり、聞いたりしたらびっくりするだろう。「あれは何だ!」「電話機を首からぶらさげて・・・?」「そんなもん、どのようにしてぶら下げて歩けるんだ?」と。

 自動車電話が登場したとき、車に備え付けていることは、一つのステータスのようでもあった。しかし、これは一世を風靡する前に、携帯電話の登場により退場させられた。それが、今や携帯からケータイに変わった。電車に乗ると、乗客の3~4割はケータイを弄っている。多いときは、半数以上がメールを打っているのか、ゲームをしているのか。そこから何らかの知識、情報を得ようとしている人もいるのだろうが、私など実にもったいない時間を使っているなと思ってしまう。

 先日も、車内で幼児を横に座らせた母親が黙々と誰かとメールをしていた。もし家庭をはじめどこででも、こういう状態なら一種の育児放棄ではないのか。以前は新聞を読んでいる人、読書をしている人、音楽を聴いている若者のウオークマンから漏れ出る少し迷惑なカシャカシャという金属音もあった。しかし、今や多くの人が沈黙して小さな画面に見入っている。スマートフォンが登場してから、さらにひどくなっている。一つの空間で、多くの人が沈黙してケータイ画面に見入っている光景は、不思議な、ときに一種異様な風景、空間ではある。外国の車内も同様なのだろうか。

 なかには、通勤ラッシュの人混みのなか、メールを打ちながら、スマートフォン見ながら歩く無礼者もいる。当然、人々の歩くスピードとは異なり、邪魔になること夥しい。先日は、メールをしながら自転車で走っている若い女性がいた。現代人はすぐにケータイの画面に見入る。それは、見るというよりも見入るのである。心のこもった言葉のやりとりもなく、画面に現れた文字の交換をしている。遊びは機械相手のゲーム。これではコミュニケーション力も身につかず、豊かな感情の交流は望むべくもなく、もちろん語彙も乏しくなるのは当たり前。子ども同士が、つまらぬことで喧嘩をして手を出すのも分かる。大人だって、いとも簡単に仲違い。しかも最近は、音声で応えてくれるのがあるという。スマホに向かって「あー、疲れた」と言うと、「ここでコーヒーを一杯飲んだら」と応えてくれるらしい。これでは人との会話もなく、スマホ相手に毎日を過ごす若者も登場してくるだろう。子どもの頃からこんな日々を過ごすなら、きちんとした社会人に成長する筈がない。人として、その在り様は危険というしかない。

 なにはともかく、面と向かって話せば、自然と相手の目、顔を見て話す。これでこそ誤解も生じない。まずは、しゃべることの大切さを見直すことであろう。

 平成14年、当時の遠山敦子文部科学大臣が「学びのすすめ」を発表した。文部科学省が文書で、ゆとり教育、ゆとりを目指す教育を方向転換し、確かな学力を身に付けさせるのが本来の学校教育の目標であるという当然のことを述べた。いやいやもっと古くは明治時代に福沢諭吉は『学問ノススメ』で、学問の重要さを著している。しかし今や、“学問”“学び”どころではない。我が国での喫緊の課題は、“しゃべりノススメ”ではないだろうか。“学問”“学び”はおろか、話すこともしない、できないでは、まさに危機である。話すこと、コミュニケーションはすべての前提。

 なかでも大阪人は昔から、“しゃべり”と言われている。大阪の漫才では、“しゃべくり”と言う言葉もある。何かと話題を投げかける大阪のオバちゃんのみならず、オッちゃんも、若者もワイワイガヤガヤとしゃべり、今こそ大阪の真価を発揮することであろう。それでこそ、わが思いや考えを正確に伝えることができるのである。

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