大阪の作家・織田作之助

 昭和21年『世相』によって、戦後の流行作家となった「オダサク」の愛称で親しまれた織田作之助は、大正2(1913)年生まれで、今年が生誕100年になる。大阪市天王寺区生玉、木が生い茂り、坂の町でもある上町台地の一角に生まれている。25歳の頃、スタンダールの『赤と黒』に出会ったことがきっかけに、自分の生き方を書いてみようとし、これが自伝小説『雨』である。そして昭和15年『夫婦善哉』を世に送った。“メオトゼンザイ”、この言葉そのものが、大阪の匂いがしてくるではないか。あかんたれのボンボン育ちの男と、強気でしっかり者の女の物語である。映画では、森繁久彌と淡島千景が昭和初期の大阪を舞台に大店のドラ息子としっかり者の芸者の夫婦を演じた。実は、この作品のモデルは氏の姉夫婦であるとのこと。法善寺の側には、2つの椀に分けてよそわれたぜんざいを食べる店が、今も繁盛しており、大阪観光のスポットでもある。また、この『夫婦善哉』の中で、大坂千日前の自由軒のカレーを一躍有名にした。普通は白いご飯の上にカレーがかかっているのだが、ここのは最初から混ぜてあって、真ん中に生卵を落としてある。織田作は、毎日のように来てはカレーを食べ、『夫婦善哉』の構想も練ったという。ぜんざいも食べたことが何度かあるし、カレーは独特の風味がする。

 33歳で没した短い生涯を大阪にこだわり、大阪弁で庶民の暮らしや町の風俗を数多くの短編に描いている。まさに地べたから見た大阪である。ぼうぼうと伸ばした長髪で、身長が5尺8寸(約177㎝)というから、当時としては背が高く、いつも皮のジャンパーを着ていた。また時に和服の着流し、すりへった下駄を履いていたというから、かなり目立っていたと思われる。太宰治、坂口安吾と並んで戦後の無頼派を代表する作家であるが、この二人と比べると、なじみが薄い。大阪にこだわったことと、33歳と、その生涯があまりにも短すぎたからだろうか。その無頼ぶりは、いろいろなところに書かれているが、それが事実とすれば、破天荒な生き方を通り越して無茶苦茶としかいいようがない。学生の頃に喀血したが、病院に行かずに放置。覚醒剤の一種ヒロポン(当時は合法であった)を1日20本打ち、たばこは100本吸っている。その生涯は、思い通りに生きたという意味では華やかとも言えるが、儚い。

 昭和22年、今宮戎が賑わっている1月10日の夜、亡くなっている。肺結核による大量出血のための窒息死である。亡くなるまでのわずか8年間に300もの小説や評論を残した。その日の朝、「今が死に花や、花は桜木、男は織田作。俺も30歳まで生きられるとは思わんかったや」と呟き、臨終に際し「十日戎の日に死ねるとは運がええ」と喜んだといわれる。亡くなるときも大阪にこだわっている。

 織田作之助の墓と刻まれた裏に、“…惜シムベシ鬼才ハ文学ヲ熱愛スルノ余リ虚弱ノ己ガ肉体ヲ忘レタ…ロマンヲ発見シタノ傳説的ナ一語ヲ遺シ……夭折シタ”と大阪の作家藤沢桓夫が記している。この藤沢桓夫氏は、我が家の近くに住んでおられた。背の高いすらっとした方だった。氏の家は大変広く、庭には大きな木が何本も聳えており、夏になると蝉がいっぱい止まっていたので、塀の外から網で獲ったりしたものである。その屋敷も、今は殆どなくなってしまった。

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