全国各地に桜の名所がある。桜そのものは、期待を裏切らずに時期が来たら、毎年見事に咲いている。しかし、その周囲は大変である。ブルーシートを敷き、どこからともなくバーベキューの臭いが漂って来る。見物客目当ての屋台や土産物の出店。そこが有名になればなるほど、騒々しさは増していく。以前は普通の弁当であったが、いつの頃からか、バーベキューをする人が増えた。本来、花に焼き肉は合わないような気がするのだが。
しかし、家族連れで、友達同士で、職場の仲間と賑やかに楽しむことも良いものである。そんなに目くじらたてる程のこともないと思う。ただ、後始末をきちんとすることであろう。皆がモラルを持って行動すればいいものを、一部の不心得者が破目をはずすことから、何かと禁止の項目が増えていくという結果に繋がってしまう。
今や、桜というと花見、花見の桜といえば染井吉野である。しかし、これは比較的新しく江戸期につくられたもので、それまで桜といえば、山あいに咲く、山桜のことであった。何年か前、奈良の見事な山桜を見に行った。大人が何人かで抱えなければならないくらいの根っこで、樹齢も何百年であろう。ところで、桜を愛でる花見は上方から始まり、野遊びの感覚で山に入り、自生する大きな一本の桜を観賞するものであった。一方、江戸では植樹した町中<まちなか>の桜を花見したのである。江戸市中にある花見の名所には、団子屋や茶店が出たが、持参の花見弁当は大きな楽しみであったらしい。つまり、上方は桜の花の美しさを観賞するのに対し、江戸では人々がワイワイガヤガヤと賑やかにコミュニケーションをするための桜でもある。我が大阪のご先祖様は、なかなかのものである。
人々は、七分咲きから満開の桜を観賞し、その下で騒ぐ。しかし江戸時代は桜の散る頃を好んだようである。桜の花びらが少しの風でハラハラと舞い落ちて来る、そして柔らかな土の上に花弁の絨毯が出来る。この風情を楽しんだのである。
桜の花、それは先の割れた5枚の花びら。朝日の桜、夕日の桜、月の光に映える夜の桜も、それぞれに我々の心を揺さぶる。雨に濡れた桜もいいし、風に散る花びらは寂しくはあるが、これはこれで美しい景色をつくる。我々は、まさに自然の恩恵に恵まれながら日々を過ごしている。
大阪では大阪城公園、少し遅れて造幣局の通り抜けなど、満開の桜の下で、家族連れや職場をはじめさまざまなグループで賑わう。静かに花を見るのも喜びならば、親しい人との宴も喜び。自然は桜を咲かせ、桜は、人を和ませる。じっくり季節を感じることも、また大事なことである。