年一回、かつての職場のメンバーが集まる。今回も1月下旬に集合した。メンバーは私を入れて8人。一人は、都合がつかずの欠席。それは、某高校に勤務していたときの教職員である。行政職もいれば、教員もいる。まさに多彩な仲間。かなりの昔、私自身もまだ若かった頃の仲間である。学校が混乱し、ある意味で強い雨風、日によっては嵐が吹いたり、雷が鳴ったりで、その事態を正常化するために頑張った彼らである。
毎日が、朝から夕方まで緊張の日々を過ごした。私自身も、うかつに出張で学校を空けられなかった。朝早くから日が暮れるまで学校に張り付いた。ある時は、メンバーの一人が慌てて私の部屋に来て、今、こういうことが起こっていますとの連絡。急遽、部屋を飛び出し、その場所へ。こんなことは日常茶飯事。まったく予想もしない、できない事象が続発する。教職員はどうなることかと、ある者は不安、ある者は傍観。疑心暗鬼。しかし、直接関わる者は、そんなことを言っておられない。永年に渡ってのことゆえ、一朝一夕にはいかず、正常化するのに1年半を要した。だから、毎日毎日が、ある意味で時に緊迫するなど苦の連続であった。楽しいどころの騒ぎではなく、てんやわんやの大騒ぎ。なかでも直面する彼らは団結し、学校を正すために一歩も引かず、頑張った。逆に言えば、貴重な経験、体験である。“何とかしよう”、“負けるな”、“弱気になるな”時には“イテマエ”と鼓舞激励、一丸となった。
メンバーの中には、早くどこかへ転勤したいと思った者もいたはずである。逆に赴任してきた者は、“なぜ、自分がここへ”と思ったと想像できる。そう思いつつも、彼らは逃げなかった。この経験は、その後の私にとって、さまざまな面で大きなプラスとなった。
あの空気は、その場にいた者にしか分からない。自分の勤務する場所を離れての学校改善、改革はあり得ない。そこに居てこそ、学校を把握し、その場の空気を感じ、教職員の気持ちが理解でき、また彼らの協力も得られる。そして、皆が頑張った。私は、PTAとの会合はもちろん、府のしかるべき部署、そして教育委員会へ。時には、メンバーの一人とともに足を運んだ。警察へも二人で行った。その後、互いに勤務する所が変わっても、その時のメンバーは毎年会い、旧交を温め、それぞれの職場で頑張ろうと誓いあってきたし、今もそうである。
そのメンバーのうち、3人は定年退職などで職場を去っており、その都度、“送る会”をしている。残るメンバーも、あと数年のうちに退職を迎える。宴の途中で、必ず“次回、誰も欠席しないように”などと誰かが言う。そして、そのうち誰言うともなく、“次の会の時まで皆、元気に。体を壊したり、欠けてしまうことないように”といった声が出る。もちろん、最初に欠けてしまう危険性の高いのは最年長の私である。気をつけなければと自戒している。しかし、こればかりは順番通りとは限らないぞと思いつつも、やはり私が一番油断しないでおこうと考えている。次の宴のためにも。
かくて日が変わろうとする23時30分、次回の集合を約束して心斎橋にて解散した。