年一度の集まり

 毎年6月の某日、母校である大阪府立O高校の同窓会を開く。といっても参加者は7人。かれこれ40年程は続いている。いつ頃からかはっきりとは覚えていないが、高校で同じクラスだったSと2人で時々、会っていたのが始まりではないだろうか。その後、間もなく3人、4人、そして7人になって30余年になる。ここ10年近くは、中学校も一緒だったWの世話で集まる場所も決まっている。皆それぞれの道を歩んできて、現役を引退して、別の所で働いている者もいれば、完全リタイアも居る。

 クラスで成績が一番であったTは、大手製薬会社を退職後、キャンピングカーで奥さんと二人で北海道をはじめ色々な所へでかけ、二人で趣味の写真撮影をしている。この日も、賞を取った風景写真を見せてくれた。ちょっと素人では撮れそうもない写真であった。夫婦それぞれが賞を取っており、私の目から見て、どうも奥さんの方が上ではないかと思う。このTは体が弱いということで、高校時代には、よく体育の授業を見学していた。体型は、今もまったく変わらずである。皆から、高校の時は、“本当に病気だったんか”、“さぼってたんと違うんか”と、今や大いに疑われている。7人の中で、最も長生きするのは、このTかもしれないと、他の6人は予想している。高校3年の時、このTと、医大で教鞭を取っていたW、大手英会話学校に勤務していたS、そして私が同じクラスであり、成績はTを除いて3人は似たり寄ったりでクラスの中程だったと思う。なかでもSとW、そして私は、しばしば一緒に下校した。ことに土曜日は、電車の本数も少なく、学校から国鉄(現・JR)駅まで歩けば20分かかるところを走った。畑の畔道、鶏舎の横、路地のような細い道を。あとの3人は、クラスは違うが金融機関に勤務していた者、高校教員を定年退職後は大学で英語を教えていた者、今も高校で数学を教えている者である。金融機関に勤務していた彼とは、小学校、中学校も一緒である。

 私とSは、学部は違ったが大学も一緒で、よく2人で下校した。快速電車に乗らずに、2~3分遅れで北陸からやって来る普通列車に乗っていた。一両に数人しか乗っていない、まさにガラ空きであった。ともにこれまで70年余り、色々な寄り道、回り道をした。そしてSとは、ひょんなことから、今も週1回は会う。

 さて、7人のうち2人は、いわゆるメタボであり、皆から最も危険な二人と囁かれている。しかし、こればかりは予想がつかない。男7人の七夕(6月であるが)が、いつまで数を減らすことなく年に一度の逢瀬を楽しみたいものである。しかし、“順番に減っていっても、最後は俺が一人で宴をするぞ”と豪語している者もいる。

 しかしいずれは、いわゆる三途の川を渡って、此岸から彼岸に渡る。向こう岸は、どんな世界なのだろう。江戸時代に斬首された男が謳ったものに、“さきの世にはいかなる美女がいるかして死に行く人の帰る人なし”というのがある。また、シェークスピアはハムレットに「死ぬこと眠ること…<中略>…その境を越えて一人も旅人が帰って来ない未発見の国」と言わせている。しかし、まだ訪問したくはないと思っているが。最後に残るのは誰なのか。予想通りにTかも。

 淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫氏は“人は生きて来たように死んでいく”と語っている。“しっかり生きた人はしっかり死んでいく。不平不満を言いながら生きてきた人は、不平不満を言いながら死んでいく。周りに感謝しながら生きてきた人は感謝しながら死んでいく。これまでの生きざまが死にざまに反映する”と。死んでからまで、後ろ指を指されないようにしよう。

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