高架下の風景

樹木の効用は言うまでもない。空気も新鮮になるし、何よりも緑は我々の体に活力を与え、心をなごませてくれる。本学のキャンパスにも樹木が茂り、四季折々に花が咲く。我が家の近くの神社には、当然樹木がいっぱいである。しかし、これも状況に寄っては、マイナスも出てくる。神社の樹木は時に高くなりすぎ、道路にまで枝が飛び出す。落ち葉の季節になると大変である。台風シーズンともなれば、樹木が揺れて恐怖も感じる。

毎朝の通勤時、いつも気になる箇所があった。高架を走る電車の窓から外の景色を見ていると、民家が建て込んでいる中の一カ所だけ木々が生い茂っている。それは繁っているというよりも鬱蒼と繁茂している。周囲の家の屋根に木の葉が蔽っている。あそこまでいくと、周りの家々も困るのではないだろうか。冬でも木々が茂り、夏になると、さらに樹木は高く、そして四方八方に枝を張り、葉を伸ばし周辺を蔽ってしまっている。当然、夏のことゆえ蚊をはじめとする虫も多いことだろう。

車窓からは、繁茂する樹木しか見えないが、その下には家があるのだろうか。樹木の中を全く窺い知ることができない。もし、人が住んでいるのなら日中も電気をつけなくては、生活できないのではないか。それともその箇所だけ誰もおらず、樹木が生い茂っているだけなのだろうか。途中で下車して、謎の森を一度、見に行きたいなと思うほどであった。

ところが、先日、突如として、その風景が消えてしまっているのに気づいた。樹木がすべて取り払われ、庭石かもしれない大きな石と伐採された樹木が転がっている空き地になっていた。住まいに使用されていたらしい建材が置かれていないところから、単に樹木が茂っていただけで、家はなかったのだろうか。それとも、私が気づいた時には、片づけられた後だったのだろうか。大木が根本から切られ、切られた部分が転がっている。長年に渡って空に伸びていた樹木が一つの材木になってしまっているのも、何かわびしい。

まだ地面も整地されていない。二百坪はあろうか。周囲の家は一挙に明るくなったことと思う。住宅が建つのであろうか。何年も散髪をしていなくて暑苦しかった頭にバリカンを入れて、丸刈りにしたようである。見ていて、“すっきり感”はする。樹木は人の心に潤いを与えるが、山の中ならいざしらず、街中では手入れもしていない伸び放題は、周辺を困らせるであろう。かといって、根元から伐られてしまい、伐られた部分が鮮やかな肌色に光っているのも、これまた悲しい。樹木には何の責任や罪もないが、人間というものは勝手なものである。

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