四季のある国

 二月には梅が、三月には桃が咲く。そして、四月には桜が咲く。冷え込んだ地に春がやって来ると、その季節の大きな力の前に桜の木は、一斉に蕾が膨らみ花を咲かせ、虫を呼び、鳥を招く。梅は音もなく静かに目立たないように片隅で咲くかのごとく、桜は音を立てて賑やかに咲き誇るがごとく開花する。どこか心が華やぎ、うきうきとしてくる。一斉に咲く桜は、人に喜びや楽しみを与える。しかし、時には悲しみ、淋しさ、世のはかなさを感じさせる。ことに、花びらがかすかな風に散っていくとき。

 そして、山吹(ヤマブキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、初夏には芍薬(シャクヤク)、秋には秋桜、菊が咲き、紅葉が赤く色づく。そして冬になると、一斉に葉を落とした木々の枝が空を突き刺すように伸びている。底冷えの冬には山茶花が。季節の移り変わりとともに、それぞれの樹木が、待ってましたとばかりに花を咲かせ、実がなり、山肌の色を染める。道端の雑草さえ、季節により緑が鮮やかになったり、それ相応の花を咲かせる。まさに自然がおりなす芸術である。春には春の花が咲き、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の花が咲く。

 千差万別の樹木が風景を変え、放っておいても我が日本の国は美しく変化していく。自然の偉大な力に驚く以外、何ものでもない。こうしたことが、何百年、何千年と続いてきたのである。子どもの頃、顕微鏡で見たことがある花弁、メシベ、オシベの形など、驚くべき精巧さで作られていて、それは美しい芸術品である。しかも、それを一つ一つの木々に無数に咲かせる。自然は、こうした素晴らしい作品を、それぞれの季節になるときちんと作り、我々は、それに引き付けられ鑑賞する。

 ことに一斉に美しく咲き、はかなく散る命短い桜は、日本人の心をとらえる。ところで、桜の樹齢は、スギ、クス、ケヤキなどの樹木と比べれば短い。桜をとくに愛でるようになったのは、平安遷都の頃からである。平安京の朱雀大路には桜と柳が交互に植えられ都を彩っていたという。

 人は、自然の力で咲いた花を眺め、その前で弁当を広げ時を楽しむ。初秋から冬にかけて、落葉樹が色づいてくると人々は紅葉狩りを楽しむ。生活に癒しと潤いを与え、喜びを感じ、郷愁を感じる。四季折々に、私たちの目を楽しませ、心を癒し、季節の移ろいとともに風情を感じさせてくれるのである。

 ところで、よく考えれば、春、夏、秋、冬、これがこんなに規則正しく順番にやって来る国はあるのだろうか。葉書きや手紙の冒頭に、季節の言葉から書き始めるのは日本人ぐらいではないだろうか。常夏でも、極寒でもない、この四季の存在する国に生まれたことを、ただただ有り難く思う。

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童謡『ぞうさん』

 “ぞうさん ぞうさん おはながながいのね そうよ かあさんも ながいのよ”。この歌は、平成6(1994)年国際アンデルセン賞・作家賞を日本人で初めて受賞したまど みちおさんが昭和26年、41歳の時、幼児向けの童謡を書いてほしいと頼まれ一晩で書きあげたものである。團伊玖磨氏が曲をつけ、昭和27年にNHKで放送され全国に広まった。この『ぞうさん』、そんなに昔の歌だとは知らなかった。その氏が、2月末、104歳で亡くなられた。

 「ぞうさん ぞうさん」と誰かが子ゾウに話しかけることから始まり、「(他の動物と比べて)おはながながいのね」という問いかけに、子ゾウは「そうよ かあさんもながいのよ」と母ゾウと似ていることを嬉しく答えている。そして「だあれがすきなの」という問いに、子ゾウは「あのね」と間を置いて、「かあさんがすきなのよ」と。氏は、“ゾウの子が鼻が長いとからかわれた。でもしょげたりせず、いばって答える歌”“ゾウがゾウに生まれたことを、素晴らしいと思っているからです”と。この歌は、ただ単に、ゾウの親子の仲良しの歌ではないのである。『鼻が長い』と言われれば、からかわれたと思うのが普通だが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言っている。極めてシンプルな歌詞に、“個性”や“生命愛”への強い思いが込められている。

 まど みちおさんの『一ねんせいになったら』。こちらは、「歌えバンバン」などの童謡をはじめ、NHK大河ドラマや映画「男はつらいよ」など知られる山本直純氏作曲。ランドセルを揃え、持ち物一つひとつに名前を書いたり、入学の準備をしながら、子どもは嬉しさに胸を膨らませている。でも、同時に「友達ができるかな」「小学校ってどんな所なんだろう」「勉強についていけるかな」など、不安な気持ちも抱いている。そんな不安を吹き飛ばすような元気いっぱいの歌である。子どもたちを温かく見守り、応援するこの歌には、優しいまなざし、愛情が感じられる。

 ところで奈良時代、万葉歌人山上憶良は“銀も金も玉も何せむに 勝れる宝 子にしかめやも”と歌っている。金銀財宝が何だろう、わが子に勝る宝はないのだ。日本人は古来、子どもを「子宝」として大切に育ててきた。しかし、憶良は、その子が幼くして病死するという悲劇に襲われている。冥途へ旅立つ我が子を見送る悲しみの歌が“若ければ道行き知らじ賄はせむ黄泉の使負ひて通らせ”である。“私の子どもは幼くして黄泉の国へ行くことになりました。きっと道も知らないことでしょう。冥土からお迎えの使者よ、贈り物をいたします。どうかこの子をおぶって通してやってください”と。

 当時の社会では、乳幼児は病によっていつ死に遭遇するか分からなかった。このことは江戸時代、いや明治になってもそうであった。しかし、今や、どの子もそんな悲劇に遭遇することは極めて少ない。にもかかわらず、親の手による悲劇が後を絶たないのは、どうしてだろう。児童虐待も、いじめもない、子どもの夢が大きく開く世の中であってほしいものだ。

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活気溢れる和菓子作り、親子で楽しむ音楽会

 1月下旬、本学に宛てて一通の手紙が来た。封を切ると、本学の学生証が入っていた。学生の一人が紛失したもので、それを拾った方が届けて下さったのである。匿名なので、お礼を申し上げることも出来なかったが、実に有り難いことである。すぐに係からは学生に手渡され、当人も恐縮していた。どなたか分からないものの、改めてお礼申し上げます。

 さて、2月8日(土)、こども研究センター主催のこども応援ひろば2013パートⅡで、本学短期大学部の健康栄養学科の協力のもと「和菓子作りを体験しましょう」が開催された。こども応援ひろばは年に2回のイベントを開催しており、今回は和菓子作りを体験しましょうということで、和菓子に関して様々な賞を受けておられる地元の菓匠庵の方をお招きして、地域の皆さんへ参加を呼び掛けたものである。

 日本列島を寒波が襲い、東京でも積雪27センチを記録した。大阪でも夜中に降っていた雪が、朝には雨に変わり、道路はシャーペット状になっているとても冷え込んだ一日。和食が見直され、昨年12月、和食が無形文化遺産に登録されたタイミングでの和菓子作り。この寒いなか、多くの方々が来られて、午前、午後の2回とも普段は学生の実習で使用されている調理実習室が、今日はエプロンと三角巾を持参した地元の人たちの活気に溢れた教室となった。

 また、こども研究センターの保育室では、参加者のお子さんの一時保育も行われ、保護者は本格的な和菓子作りを思う存分楽しまれ、自ら作った和菓子を手に子どもを迎えに行く様子はとても微笑ましく、参加された人達は生き生きとされていた。

 そして、翌週の土曜日は、親子で賑わった。全国的に各地で積雪の被害が出ている2月15日。今日も大阪は大変冷え込んだ日で、前日に降った雪が、まだ所々に残っている朝にもかかわらず、親に手を引かれた子どもたちで賑わった。例年、開かれている本学こども研究センター主催のマリンバコンサート~親子で楽しむ音楽会~。子どもたちにおなじみの曲から大人もじっくり味わえるクラシックの名曲が揃った親子で楽しむ音楽会である。「茶色のこびん(アメリカ民謡)」「魔女の宅急便~海の見える町・やさしさに包まれたなら~」「コンコンクシャンのうた」など、こども学科の先生方の演奏するマリンバに合わせて手を打ったり、知っている曲を口ずさんだりと、大人と子どもも大いに楽しんだ一時間。生の音楽に触れることは、子どもにとって素晴らしいことである。

 平成15(2003)年に「こども学」という新しい学問への取り組みがスタートして以来、地域に開かれた大学として、地域コミュニティーの場として子育てを支援する活動の一環である。学校が、地元の方々、そして親と子の触れ合いの場になっているのは、大変素晴らしいことであるとともに、学生たちも保育の理論から実践、その在り方を真剣に学んでいる。

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発表会・展示会

 先月、短期大学部幼児教育学科と健康栄養学科の発表会・展示会が開催された。昨年の12月に入ると学生たちは熱心に取り組んでいた。10日(土)は展示会、11日(日)は発表会と展示会。まさに手作りそのもので健康栄養学科2年間、幼児教育学科2年間の学びで培われた学習成果の展示・発表である。10日の土曜日には附属幼稚園の園児たちが、先生に連れられて見学に来ていた。

 健康栄養学科の学生は、毎日の“食”を通して幸せな生活をサポートする栄養の専門家である栄養士を目指しており、学内にある本格的な実習設備を使って、実験や実習に取り組んでいる。その成果をパネル展示やスライドで発表していた。大教室で行われた発表は『やさいを食べよう』『なにわの伝統野菜を利用したスィーツ:勝間南瓜のしっとりケーキ』『和歌山産果物のジャム作り』という食育と地域連携に関する三つのテーマで、学生たちは、パソコンを駆使して日ごろの研究成果を上手に発表していた。また、『葉酸たまご&ハーブ料理』などを展示しており、子どもを連れたお母さんが熱心に見ていた。今日、栄養、食物、健康といったことは、日常的に色々と言われているだけに、参加者の興味も非常に高かった。

 幼児教育学科では、12月後半から学生たちが熱心に人形劇や音楽劇の練習、発表に余念がなかった。二つのセミナーからは人形劇「うさぎのテーブル」「あらしのひに」、グリム童話を基にした音楽劇「こびとたちとくつや」。脚本、演出、人形作り、ダンス、そして様々な道具、すべて学生たちの手作り。そのバック、背景を彩る効果音・効果音楽、これまた別のセミナーの取組。3つの劇の効果音楽をピアノを中心に創作、演奏。演技者にタイミングを合わせたり、音で巧みに誘導したりと、演じる者と一体となり、力を合わせて一つの舞台を作り上げていた。やってきた子どもたちは劇に引きつけられ、夢の世界を遊んでいた。一方、演じる学生も真剣。

 展示は、1年生は美術学で、会場の雰囲気を盛り上げようとグループで入場ゲートの製作。また、保育内容「環境」では、グループごとに4月から3月までの四季や年中行事を画用紙や色紙、さらには廃材を利用して立体的な壁面装飾を製作していた。2年生の工芸は、それぞれの思いをこめた木彫パズル。紙粘土でホンモノそっくりに作った野菜などを展示している保育表現技術等々。そして2年生の各セミナーによる展示でも、それぞれ学んだことを発表展示していた。フエルトの素材で小鳥を作ったり、段ボールに新聞を何回も重ねて丈夫にしたうえで布を貼ったチビッコハウス、牛乳パックの椅子やテーブル。やって来た子どもたちは、展示されている物を手にとって眺めたり、段ボールで作られたチビッコハウスに入って遊んでいた。それぞれのセミナーが、思い思いの展示、発表をしていた。

 学生たちは、短期大学部2年間の成果を地元の人たちに公開することによって、充実した学びを振り返るとともに、1年の学生にとっては大きな刺激となり、これからの学生生活への大きな指針となったのではないだろうか。

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カレンダー

 年末になると、以前はたくさんのカレンダーを、旅行社をはじめとする企業や近所の商店などからいただき、居間や自分の部屋、そしてトイレにまで吊した。しかし最近では、経費節約もあってか非常に減少してきた。それでも、本屋さんや初詣で賑わう境内でカレンダーを売っているところを見ると、減ったとはいえ、買わなくてすむことはありがたいことだと思う。

 子どもの頃には、毎日、一枚一枚捲っていく“日めくりカレンダー”が、どこの家にもあったものだ。もちろん、美しい写真や絵などはなく、白い紙に太い黒色で日を(日曜日と祭日は朱色)、その横には曜日、その下には大安・友引などと書いてあった。縦長のものには、その日の格言も書かれていた。親が、毎朝はぎとっていた。時々、忘れていて、まとめて何日かをはぎ取っていた。今ではこういったカレンダーを目にすることも少なく、季節感溢れる風景写真や絵など、どれもこれもカラフルなものになった。

 ところで、私は見たことがないが、かつて「一世紀カレンダー」なるものがあった。新聞紙の2倍程の大きさの紙に100年分、1970年から2069年までの3万6千5百余日が細かい字で印刷してある暦だ。作家の井上ひさし氏は、銀座の文具店で買ってきて部屋に貼っていた。夜中、これを眺めていると、いまこの地球上にいる人類はひとり残らず、ここに記されているいずれかの日にこの世から消えてしまうのだと思うと、気持ちが沈んでしまい、仕事をやめて寝てしまった。数日後、友人がそれを持ち去ったので、再びその店に買いに行くと、店員が“あれは発売禁止になりました。あのカレンダーを眺めているうちに自殺した人が二人も出たんだそうです。”と書いている。一世紀カレンダーでは、記載されているどこかの日に、眺めている当の本人が死んでしまうことになる。人は、あまりに自らの人生のその先を、命をあからさまに見せられると、希望を失くしてしまうのだろうか。未知があるから、不確かな部分があるからこそ人は、そこに微かな夢を抱き生きていけるのだろう。

 さて最近では、自動日めくりカレンダーなるものまである。日が替わる真夜中、パタンと表示板の数字が消え、新しい日が出てくる。時刻をはじめ大安、仏滅とか、温度や湿度など、多くの情報が表示されていて、人の手を借りなくても、自動的に一日一日、一刻一刻が正確に変化していく。日時は、本来、人間の都合に関係なく流れているものだが、ここまでいくと、なにか日めくりに支配されているように感じてしまう。やはり、毎日でなくとも、月が替わるときに我が手でめくるのが、私には合っている。

 さて、手許にある今年のカレンダーをめくると、どこかの庭が写されており、その池にある灯篭は雪をかぶっている。そこに張りだした木の枝にも雪が積もっていて、その下には雪に覆われた細い道が続いている。春には満開の桜、秋には赤くそまった紅葉の道が続く。冬になると絨毯のように銀杏の葉に覆われた道が写されている。

 その時その時に一つの道を選ばなければならないということが人生には何度かある。その道に、自分の人生を託し決意したりする。他の人から見れば、つまらない寄り道に見えても、その人にとっては魅力的な道である。このことで成功することもあれば、失敗することもある。また、ほんの些細なことから、今まで見つからなかった、思いもしなかった道が忽然と姿を見せることもある。そして、選んで歩き始めたら、どのような苦難の道でも進んでいかなければならない時もある。また、挫けることのない強い意志があれば、道はおのずと開けてくる。しかし、どんな道であれ、傲慢に一人だけと思って歩んではならない。そこには、どの道でも、常に支えてくれるさまざまな存在への感謝を忘れてはならないであろう。1月のカレンダーを見ていて、ふと思った。

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地下鉄開業80年

 今年は大阪市営交通110周年であり、先日セレモニーが行われていた。現在、その中心となって、日々大量の人々を運んでいるのが地下鉄である。こちらは昭和8(1933)年、当時の関 一大阪市長の時に開通したもので、今年の5月が丁度開業80周年に当たっていた。優れた社会政策学者・都市政策学者であった関市長が構想した地下鉄は、梅田―心斎橋間(3.1km)が開通し、今の地下鉄1号線(御堂筋線)である。昭和8年5月20日のことで、当初は1両編成であった。この大阪の地下鉄は、公営地下鉄としては我が国最初のものである。続いて心斎橋駅― 難波駅間 (10年) が開業し、2両編成運転が開始された。その後、難波―天王寺間(13年)と延長され、路線は伸びていった。

 ところで地下鉄は、「大阪市高速鉄道」と呼ばれた。高速鉄道といっても新幹線のようなものではなく、地下鉄が開業したときに、既にあった市電(路面電車)よりも高速だからということである。私の子どもの頃、地下鉄はもちろん御堂筋線のみで、車体は上が白色か、それに近い色で、下部が水色であった。そして連結器部分は閉じてあって、隣の車両への移動はできなかったように思う。西田辺、我孫子まで延長されていた頃は、もちろん地上より下を走っていたが、一部青空が見えていた記憶がある。

 また、1960年代まで難波、梅田駅などの改札口周辺では、年配の女性たちが回数券を1枚ずつ切り取り、バラで立ち売りしていた。当時の回数券は、現在のような回数カードではなく、紙製の冊子で11枚綴りが額面10回分の価格であった。1冊11枚をすべて売ると、1回分の収入となったのである。切符を買う際、窓口に並ぶ手間が省けることから利用者も多かった。私も、よく買ったものである。

 かつて三球・照代の漫才に、“地下鉄の電車は、どこから入れたの?それを考えてると一晩中寝られないの。”と言って、客の笑いをとっていたのがあった。今では8路線になり、大阪の大動脈になっている。ところが、開通当時は、「市電(路面電車)」が全盛時代であったので、200メートルの豪華なホームに全長17メートルの電車が一両発着するだけで一日15000人を運んでいたにすぎなかった。まさに豪華かつ閑散で、「贅沢だ、広すぎる」と非難されたらしい。

 ちなみに関市長が造った御堂筋も、かつて同様に非難され、飛行場を造るのかと言われたそうである。地下鉄といい、先見の明である。大阪の作家・石濱恒夫は、その著『大阪私情』で、“当時の関市長は、飛行場をつくる気か、と笑われたというのだが、終戦後のころ、実際に進駐軍の軽飛行機が、銀杏並木のまん中に着陸し、また、離陸するのを見た。”と書いている。おそらく、とてものどかな光景だったのであろう。

 それが今では御堂筋は車で溢れ、時には渋滞。地下鉄も乗客で混雑。ことに御堂筋線は通勤時間帯は、ひっきりなしに電車がホームに入ってくるが、どの車両も満員の状況。誰もが予想していなかった。はやりの言葉、想定外である。そして今、大阪の地下鉄は、何かと話題を提供している。民営化の問題、そして初乗りが200円から180円へと値下がり。これから先は、どう変化していくのだろう。

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大阪が走る

 10月末の日曜日の朝、地下鉄はいつもと違って大勢の乗客が乗っている。皆が一様のスタイル、服装。そして、一斉に森ノ宮で元気よく降りていき、車内は一挙にガランとした。一昨年から始まった大規模市民マラソンである。チャリテイマラソンとしても定着した。国内最大規模の大阪マラソンで、3万人を超えるランナーが浪速の町を走り抜けた。大坂城公園前の道路はランナーで埋め尽くされたことだろう。新しい大阪の祭りでもある。

 3万人の定員に15万人を超す申し込みがあったという。日頃から鍛えている知人も参加した。3万人というと、号砲が鳴って全員がスタートラインを切るまで30分はかかるのではないだろうか。先頭がスタートしても、後方の人はじっと待っているか、その場で足踏みをしているという。私なら待っている間の足踏みで疲れてしまい、スタートラインを切る前に棄権という珍事が発生したことだろう。

 さて、秋の深まる大阪城公園をスタートし、御堂筋、中之島、京セラドーム大阪、道頓堀、難波、通天閣、住之江公園から南港へ。大阪の名所というよりも浪速のシンボルをひた走る。1万人のボランティアと沿道の約125万人の観客が織りなす一大イベント。思い思いの姿が観衆の目を引く。なかには奇抜な格好の人もいる。あの姿、飾り付けで42.195㎞を走るのだろうか。それはそれですごい体力ではないだろうかと、逆に感心してしまう。沿道からは関西弁の声援に、音楽の演奏、ダンス、よさこい踊りなどでランナーを励まし、さらには、大阪名物のたこ焼きなど、さまざまな食べ物、飲み物も登場するおもてなし。まさに大阪。大阪マラソンのための企画、運営は想像に難くない。

 ところで、大きなマラソンの魁ともいうべきものに青梅マラソンがある。30年程前に勤務先の同僚が出たことがある。彼はそのマラソンに参加したことを我々に黙っていた。ところが青梅マラソンを報じる週刊誌に、走っている一群の中に彼が写っていたことから、事が露見したという楽しい思い出がある。でも、42.195kmを走破するということは大変なことである。フルマラソンの完走率95.1%というのも凄い。私など、ほんの10分ばかり走ったら息切れしてくる。体力のない者からすれば、まさに驚嘆である。24時間テレビでも、ランナーとしては全くの素人である芸能人が走っている。練習すれば走られるものなのだろうか。

 この大阪マラソンの経済効果は大変なものだろう。地下鉄の乗車券だけでも大きな収入。宿泊、観光、大阪PRの期待もできる。関西では神戸マラソンが今月、奈良マラソンが12月に開催され、そして来年2月には京都マラソンが予定されている。今後、参加者の奪い合いになるのではないだろうか。関空、伊丹、神戸空港での客の奪い合いと、どことなく似ている気がしてしまう。

 なんといっても大阪城に集まったランナーは3万人。彼らに陣笠、槍、刀を持たせれば、大阪秋の陣である。さすがの太閤さんも、400年余り後に3万人のランナーが思い思いのスタイルで城に集合するとは想像もしていなかっただろう。現代版大阪秋の陣は平和と繁栄、そして健康の象徴である。

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しゃべりのススメ

 首からケータイをぶら下げて通勤電車に乗っている人がいる。一昔前の人が見たり、聞いたりしたらびっくりするだろう。「あれは何だ!」「電話機を首からぶらさげて・・・?」「そんなもん、どのようにしてぶら下げて歩けるんだ?」と。

 自動車電話が登場したとき、車に備え付けていることは、一つのステータスのようでもあった。しかし、これは一世を風靡する前に、携帯電話の登場により退場させられた。それが、今や携帯からケータイに変わった。電車に乗ると、乗客の3~4割はケータイを弄っている。多いときは、半数以上がメールを打っているのか、ゲームをしているのか。そこから何らかの知識、情報を得ようとしている人もいるのだろうが、私など実にもったいない時間を使っているなと思ってしまう。

 先日も、車内で幼児を横に座らせた母親が黙々と誰かとメールをしていた。もし家庭をはじめどこででも、こういう状態なら一種の育児放棄ではないのか。以前は新聞を読んでいる人、読書をしている人、音楽を聴いている若者のウオークマンから漏れ出る少し迷惑なカシャカシャという金属音もあった。しかし、今や多くの人が沈黙して小さな画面に見入っている。スマートフォンが登場してから、さらにひどくなっている。一つの空間で、多くの人が沈黙してケータイ画面に見入っている光景は、不思議な、ときに一種異様な風景、空間ではある。外国の車内も同様なのだろうか。

 なかには、通勤ラッシュの人混みのなか、メールを打ちながら、スマートフォン見ながら歩く無礼者もいる。当然、人々の歩くスピードとは異なり、邪魔になること夥しい。先日は、メールをしながら自転車で走っている若い女性がいた。現代人はすぐにケータイの画面に見入る。それは、見るというよりも見入るのである。心のこもった言葉のやりとりもなく、画面に現れた文字の交換をしている。遊びは機械相手のゲーム。これではコミュニケーション力も身につかず、豊かな感情の交流は望むべくもなく、もちろん語彙も乏しくなるのは当たり前。子ども同士が、つまらぬことで喧嘩をして手を出すのも分かる。大人だって、いとも簡単に仲違い。しかも最近は、音声で応えてくれるのがあるという。スマホに向かって「あー、疲れた」と言うと、「ここでコーヒーを一杯飲んだら」と応えてくれるらしい。これでは人との会話もなく、スマホ相手に毎日を過ごす若者も登場してくるだろう。子どもの頃からこんな日々を過ごすなら、きちんとした社会人に成長する筈がない。人として、その在り様は危険というしかない。

 なにはともかく、面と向かって話せば、自然と相手の目、顔を見て話す。これでこそ誤解も生じない。まずは、しゃべることの大切さを見直すことであろう。

 平成14年、当時の遠山敦子文部科学大臣が「学びのすすめ」を発表した。文部科学省が文書で、ゆとり教育、ゆとりを目指す教育を方向転換し、確かな学力を身に付けさせるのが本来の学校教育の目標であるという当然のことを述べた。いやいやもっと古くは明治時代に福沢諭吉は『学問ノススメ』で、学問の重要さを著している。しかし今や、“学問”“学び”どころではない。我が国での喫緊の課題は、“しゃべりノススメ”ではないだろうか。“学問”“学び”はおろか、話すこともしない、できないでは、まさに危機である。話すこと、コミュニケーションはすべての前提。

 なかでも大阪人は昔から、“しゃべり”と言われている。大阪の漫才では、“しゃべくり”と言う言葉もある。何かと話題を投げかける大阪のオバちゃんのみならず、オッちゃんも、若者もワイワイガヤガヤとしゃべり、今こそ大阪の真価を発揮することであろう。それでこそ、わが思いや考えを正確に伝えることができるのである。

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夏は下駄

 私は、5月から10月の間は下駄を履いている。靴は足が蒸れるし、サンダルは意外と汗でべとつき足が汚れ、雨が降っているとなおのこと。素足に下駄。暑くなってきた頃、裸足で木の下駄に触れる感触がとても好きである。足の裏に触れる木の感覚がひんやりと心地良く、しかも何となく足の裏から体の熱が逃げるようで快適。なんといっても、開放的である。だから5月になったら、昨年履いていた下駄を出し、一年ぶりの再会となる。新しい下駄は、そのまま外出すると鼻緒が擦れて、親指と人差し指? いや第二指が痛くなってしまう。やはり去年お世話になった下駄との再会は、なんとなく懐かしくも嬉しい気分になる。下駄の方もそうだろう。暖かくなってきたら、長い冬の眠むりから覚め、明るい所へ出してくれるのをうずうずして待っていたと思う。そして、主人の体と一緒に、色々な所を見学できる。公園や神社、ときには飼われている犬とも一緒に歩く。

 私の子どもの頃は、たいがい下駄を履いていたし、小学校の頃にはリキュウといって、高下駄ほどではないが、普通の下駄より少し歯が高いのが流行ったのを覚えている。そして下駄の歯には、自転車の古タイヤの切れ端などを打ちつけたり、張ったりしていた。おそらく、歯が早く摩耗しないようにとのことだったのだろう。

 靴と違って左右が共通で、大きさも大体でいい。サイズが何センチとか細かいことも言わない。現に旅館などに置いてある下駄は、その大きさが一律である。ついでに背丈も少し高くなる。

 ところで中国、インドネシア、タイなどにも下駄があるが、鼻緒が内側に寄っているなど左右の別がある。左右の区別のない下駄は世界でも日本だけに見られるマイナーな存在らしい。ただし、平城宮跡からは、穴を片寄せてあけた下駄とともに、中央にあけた片寄りのない下駄も出土している。前者は、下駄に左右があることを示している。そして、鎌倉時代以降になると、なぜか下駄の前穴の片寄りはなくなるのである。下駄の普及に伴って生産効率を上げるため、これまでのように片寄せて穴を開けるという面倒な作業が敬遠され、作り易さが、穴を中央に定着させたのかも知れない。

 暫く履いていたら、歩き方の癖で歯の前後左右のどこかが減ってくる。だから私は、時々、朝に左右を逆にして履くことにしている。こんな便利で、清潔なものはない。しかし今では、下駄を履いている人は滅多にみかけない。そのため、下駄の値段は、少し高い。まさに需要と供給のバランスである。もっと安ければ、二つ、三つ買って、日によって違うのを履くのだが。日本本来の履き物とも言うべき下駄を尊重し、愛用してほしいものだ。

 雪道を下駄で歩く光景を歌った江戸時代の俳句に、「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」というのがある。一方、「四谷怪談」、「皿屋敷」と並び、日本三大怪談と称せられる怪談『牡丹灯籠』では、美しいお露<つゆ>の幽霊はカランコロンと駒下駄の音を響かせて夜道を歩いて来る。これが、靴ではサマにならない。あれっ、幽霊って足があったか。でも、この『牡丹灯籠』、もともとは中国から伝えられたものだからだろうか。

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大学開学10周年

 本学は、30有余年に渡る短期大学の歴史を大きく発展させるべく平成15年、全国初の「こども学部」を開設。
その4月、初々しい1年生が入学して以来、10年が経過しました。

 午前中は、こども応援ひろばパートⅠとして、多くのこどもたちが、保護者に手を引かれてやって来ました。紙飛行機をどこまで飛ばせるかと子どもたちは必至、コップのなかにコインを上手に入れることができるか、スライム時計づくりに取り組んだり、世界に一つのキーホルダーづくりやスクラッチ画に挑戦。日頃はなかなか見ることのできない幼児たちの真剣な眼差し、つられて保護者も真剣。そして学生たちの「人形劇部ぶろっさむ」が演じる“三匹のやぎのがらがらどん”を鑑賞する親子。なんと9号館1階、2階には、500名近くの親子で大賑わい。

 午後からは、開学10周年記念式典・記念シンポジウムが開催された。式場には、東大阪市長の野田義和様をはじめとする来賓の方々、高校関係者、他大学の関係者、後援会、卒業生、旧教職員、そして在学生。記念シンポジウムでは、『これからのこども学部への期待~日中の模索と課題から~』というテーマで2時間半に渡って発表、シンポジウムが行われた。奈良女子大学大学院教授の麻生武先生は「日本と中国の幼児教育の共通点と相違点」というテーマで、人間が哺乳類の中の優等生であるのは、他の哺乳類より「遊びをよく知っており」「遊ぶのが得意だ」からである。そして日本と中国の幼稚園について話された。「中国における子ども学再建の意義」というテーマで上海師範大学教育学院学院長の陳永明先生は、こども学という学際的学科開設の動きが世界各国で見られる今日、こども学の再構築は中国でも重視されており、上海師範大学では「こども学」は新学科として博士課程の枠組みに組み込まれた。そして教員養成教育の重要科目として「こども学」は位置づけられているとのこと。他の先生方の発表。そして吉岡副学長のコーデイネーターで展開された。

 中国は、世界で最も子どもの多い国である。しかし、一人っ子であるため、いろいろな面で恵まれてはいるが、一方では心身発達のアンバランスが見られる。たとえば、子どもの独立性、社会性が低くなっており、また、自分中心で集団性に欠ける面が見受けられるといった報告がなされた。そして家族にとって子どもはとても大事な存在であり、それだけに幼稚園に対する要求水準が高く、それは時には幼稚園への苦情となって表れてくる。親は、勉強と遊びを対立的にとらえる傾向があり、保護者の考えを変えることも必要である。中国も少子化へ向かっており、ことに都市はそうであり、このまま進めば、将来は深刻な事態を招くと。

 副学長からは、我々は日本の教育だけを見ることなく、中国をはじめ各国のそれを見ることの必要性を話し、シンポジウムに参加している本学の学生にとっては、またとない良い機会であり、これを今後に生かしてほしいと締めくくった。

 さて、今日という日は一つの通過点ではなく、新しい歴史の出発点を画するものであり、10年の年輪を一つの節目として、良き伝統の上に新しい伝統を築いていかねばならない。そして東大阪という地域に根ざした大学として、ますます活力のある、より充実した学校づくりに邁進していくことである。

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