女優の池内淳子さんが亡くなった。「三婆」の脚本、演出を手がけた小幡欣治さんは「大女優でありながら、けいこ場にはいつも最初に来ていた。威張らず、わがままを一切言わない立派な女性だった。……」と。謙虚で熱心、稽古を疎かにしない姿勢。だからこそ、一流になれたのであろう。
かなり前になるが、我が国を代表する俳優で、「無名塾」を主宰している仲代達矢氏が、こんなことをある本に書いていた。それは、俳優の三船敏郎のことである。
20歳代の時、仲代は「七人の侍」に浪人役に出演。午前9時にテスト開始。時代劇の鬘をつけるのも、刀を差すのも初めて。歩きだした途端、黒澤監督に「あいつは誰だ。歩くこともろくすっぽできないのか!」「こいつには、メシも食わせずに、歩く練習をさせろ」。町の雑踏シーンのため、200人ものエキストラが待ち構えている中でテストの繰り返し。ようやくOKが出たのが、午後3時すぎ。6時間にわたる練習。その根性が見込まれ、「用心棒」に出演させてもらった。共演は世界のミフネである。1951年に『羅生門』がベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ミフネの名は世界に知れ渡っていた。氏にとって三船敏郎は憧れのスターだった。黒澤・三船コンビの映画は、「野良犬」以来、すべて見ていた氏が、実際に撮影所で三船と共演することになって、鮮烈なショックを受けたと述べている。
「三船さんは初日から台本を持ってこないのです。台詞をすべて覚えている。また、テストというといい加減にするものだが、三船さんは一回目から本気で刀を振り回すし、すぐ本番になる。たとえ、リハーサルでも、生半可な演技をやっていては黒澤さんには通じないことを身を持って知っていたのだと思う。さっそく、三船さんを見習った。ぼくが撮影所やロケ地、舞台に台本を持っていかないようになったのは、三船さんのおかげです」と記している。
台本を持って行かないということは、それまでに十分に目を通し、覚え、役柄を自分のものにしているということである。三船は大スターになっても、「遅刻はしない」「台本は現場に持ち込まない」「付き人はつけない」の三無主義を貫いた。東宝の専属俳優たちは、彼を見習って、無遅刻、台本なし、を心がけるようになったそうである。仲代は、殺陣で三船の動きのすばらしさに舌を巻いた。10人を斬るのに大体10秒だ。斬る時に息を詰めているから、ワンセット撮りおわると、三船はゼーゼーと激しく喘いでいた。大スターの真の姿を知ったと語っている。
大スターと言われる人たちが、どれだけ努力しているかということである。このことを考えると、我々の毎日は“あまい”ものである。どこかから“我々”と言わんといてくれと言う声が聞こえてきそうなので、先に訂正、“私の毎日”である。