20世紀最大の発見とされる古代エジプト・ツタンカーメン王の宝物を披露する「ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実~」が大阪で開催されており、好評とのことで期間が、7月16日まで延長された。5月中旬に知人が行ったところ、待ち時間が平日にもかかわらず1時間だったとのこと。
今から半世紀前のs40年、高度成長期の真っ只中、ツタンカーメン展が開催されたのを思い出す。東京、京都、福岡の三会場で400万人が入場するなど未曾有の観客動員数で、日本中が熱狂の渦に巻き込まれた。私の新任教員時代で、教えていた定時制の生徒たちと見に行った。会場の京都市美術館はまさに満員の状況で、何時間だろうか、かなりの長い列を並んで待ったので、大変疲れた記憶がある。館内はごった返していたが、黄金のマスク、黄金張りのベッド、玉座に使われた椅子など、非常に見ごたえがあり、その見事さに驚いた。丁度、世界史を担当していたこともあって、大いに参考にもなった。ちなみに、その時の生徒の一人はのちに小学校の教員になった。
この王墓、英国のカーナーヴォンがエジプト滞在を機会に発掘を考え、考古学者カーターを協力者とした。テーベの「王家の谷」と言われる所を探したのである。第一次大戦で作業が中止され、1917年再開するものの1921年になっても何も出てこなかった。もう一年やってみることとなった6年目、思いもかけなかった場所から発見されたのである。殆ど盗掘を受けておらず、5千点余りの貴重な副葬品が出土した。カーターたちが埋葬室に到達するのに4年もの歳月を要し、その品物を完全に運び出すのに10年以上の歳月を費やしたと言う。王の遺体にかぶせられていた黄金のマスクをはじめとして副葬品がほぼ完全な形で出土するなど世界を驚かせた。この王の墓は、ファラオの墓としては大きい方ではないし、王は18歳という若さで世を去ったため、その治世に特筆すべき事業も行っていない。それでも、これだけの物が出てきたのである。ということは、大ピラミッドの墓室には、どれほどのファラオの富がおさめられていたか想像を絶する。
古来、墓所は盗掘の対象となっていた。古くはBC1100にテーベの政府は組織的に王墓を襲う盗掘団を摘発している。パピルスに書かれた裁判記録が残されており、多数の墓泥棒が告訴されているのである。一方では、墓には高価な副葬品があるということは、口伝えに世代から世代へと伝わっているとともに、財宝が見つかる場所の正確なリスト、宝を我が物とするための魔術的な手続き等が記されている本が実在していた。あまりにも盗掘者が多かったので、エジプトでは課税の対象にまでなった。
ところで、カーナーヴォンが墓の公開後に突然死亡し(蚊に刺されたためと言われている)、それから6ヵ月後に彼の弟が死に、カーナーヴォンの看護師も死んでしまった。さらに、ミイラのレントゲンを撮った人が死亡し、著名な考古学者が自殺してしまうなど、発掘関係者が次々と不慮の死を遂げたのである。墓の入口には「王を妨げるものに、死の翼ふれるべし」と記してあったことからも、ファラオの呪いなどと騒がれた。結局、発掘関係者の多くが7年以内に死んでしまった。しかし、肝心のカーターは、その後もずっと生き、亡くなったのは発掘後16年である。