宝塚歌劇100年

 先般、宝塚歌劇団100周年が華やかに開催された。昨年、タカラジェンヌを育てる宝塚音楽学校は創立100年を迎え、宝塚大劇場で記念式典が開催された。多数の歴代スターが参列と報じていた。なんといっても、こんなに華やかな同窓会はないだろう。

 宝塚新温泉の呼び物にと集めた15歳以下の少女たちの「宝塚唱歌隊」。これがタカラジェンヌの唯一の養成機関である宝塚音楽学校のはじまりである。今年の元旦の新聞には、“‘小さな湯の町’のパラダイス劇場で大正3(1914)年に、わずか16人の少女たちから始まった歌劇。昭和初期に日本で初めてレビューを上演して飛躍し、戦争や阪神大震災なども乗り切って、華麗な‘夢の花園’を築き上げた。100年後の今では、未婚の女性ばかり約400人もの大集団が、日本舞踊からレビュー、ミュージカルまでこなす、世界でも類をみない劇団として大きく成長”と報じていた。当時、この16人の少女による音楽劇は、小規模ながら家族揃って楽しめる新機軸として人気を博したようである。

 さて、宝塚音楽学校と聞けば、“すみれの花咲くころ はじめて君を知りぬ ……すみれの花咲くころ”という歌は、殆どの人が知っている。出だしと、その旋律は。そして、テレビで流される音楽学校の合格発表のシーン。校訓の<清く、正しく、美しく>をモットーに、規律を重んじ、言葉遣いや立ち居振る舞いの指導も徹底。

 大劇場創立者・小林一三氏は、1914年4月、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていった。

 氏は電鉄開業に際し、「奇麗で早うて、ガラアキで眺めの素敵によい涼しい電車」という人々をアッとさせるような斬新な広告を掲げた。ガラアキとは何事だとの批判もあったが、これがまた当たったのである。

 この劇団の育成に情熱を注いだ氏は、“箕面有馬電軌(今日の阪急電車)の商策という以上に、理想の女神像にたいする献身であったかもわからない。”と、作家・小島直記氏は40余年前の著書『青雲~小林一三の青年時代~』に書いている。この本、20歳後半に読んだことがあり、宝塚100周年ということで、本棚の隅から取り出して再読してみた。

 さて、なんといっても、この宝塚人気を決定づけたものはフランス革命を背景に描く池田理代子さんの劇画「ベルサイユのバラ」であろう。初演は40年程前になる。空前の大ヒットとなり、“ベルばらブーム”は社会現象化した。

 ところで、永六輔さんの『芸人 その世界』<s44年>には、こんな事が書いてある。“宝塚温泉の大浴場が出来たものの混浴はいけないということになって使い道に困った。仕方がないので浴場にフタをして、その上を仮の舞台にし、そこで娘達に踊りをさせて浴客に無料で観せた。開演を知らせるのは豆腐屋のラッパだった。大正3年、宝塚少女歌劇団の第一回公演である”と。

 今年は大きな節目である100年。これだけ華麗で多くの人を引き付ける劇団は、世界にもないのではないか。それだけに、その修業、稽古は想像できる。これまでの良き伝統の上に、新しい伝統を築きながら200年に向かっての新しい歴史の出発である。

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