今年は大阪市営交通110周年であり、先日セレモニーが行われていた。現在、その中心となって、日々大量の人々を運んでいるのが地下鉄である。こちらは昭和8(1933)年、当時の関 一大阪市長の時に開通したもので、今年の5月が丁度開業80周年に当たっていた。優れた社会政策学者・都市政策学者であった関市長が構想した地下鉄は、梅田―心斎橋間(3.1km)が開通し、今の地下鉄1号線(御堂筋線)である。昭和8年5月20日のことで、当初は1両編成であった。この大阪の地下鉄は、公営地下鉄としては我が国最初のものである。続いて心斎橋駅― 難波駅間 (10年) が開業し、2両編成運転が開始された。その後、難波―天王寺間(13年)と延長され、路線は伸びていった。
ところで地下鉄は、「大阪市高速鉄道」と呼ばれた。高速鉄道といっても新幹線のようなものではなく、地下鉄が開業したときに、既にあった市電(路面電車)よりも高速だからということである。私の子どもの頃、地下鉄はもちろん御堂筋線のみで、車体は上が白色か、それに近い色で、下部が水色であった。そして連結器部分は閉じてあって、隣の車両への移動はできなかったように思う。西田辺、我孫子まで延長されていた頃は、もちろん地上より下を走っていたが、一部青空が見えていた記憶がある。
また、1960年代まで難波、梅田駅などの改札口周辺では、年配の女性たちが回数券を1枚ずつ切り取り、バラで立ち売りしていた。当時の回数券は、現在のような回数カードではなく、紙製の冊子で11枚綴りが額面10回分の価格であった。1冊11枚をすべて売ると、1回分の収入となったのである。切符を買う際、窓口に並ぶ手間が省けることから利用者も多かった。私も、よく買ったものである。
かつて三球・照代の漫才に、“地下鉄の電車は、どこから入れたの?それを考えてると一晩中寝られないの。”と言って、客の笑いをとっていたのがあった。今では8路線になり、大阪の大動脈になっている。ところが、開通当時は、「市電(路面電車)」が全盛時代であったので、200メートルの豪華なホームに全長17メートルの電車が一両発着するだけで一日15000人を運んでいたにすぎなかった。まさに豪華かつ閑散で、「贅沢だ、広すぎる」と非難されたらしい。
ちなみに関市長が造った御堂筋も、かつて同様に非難され、飛行場を造るのかと言われたそうである。地下鉄といい、先見の明である。大阪の作家・石濱恒夫は、その著『大阪私情』で、“当時の関市長は、飛行場をつくる気か、と笑われたというのだが、終戦後のころ、実際に進駐軍の軽飛行機が、銀杏並木のまん中に着陸し、また、離陸するのを見た。”と書いている。おそらく、とてものどかな光景だったのであろう。
それが今では御堂筋は車で溢れ、時には渋滞。地下鉄も乗客で混雑。ことに御堂筋線は通勤時間帯は、ひっきりなしに電車がホームに入ってくるが、どの車両も満員の状況。誰もが予想していなかった。はやりの言葉、想定外である。そして今、大阪の地下鉄は、何かと話題を提供している。民営化の問題、そして初乗りが200円から180円へと値下がり。これから先は、どう変化していくのだろう。